男性ソプラノ歌手(ソプラニスタ) 木村優一インタビュー/前編
久々にコンサートを開く
ソプラニスタ木村優一さんインタビュー/前編
声楽家、木村優一は男性でソプラノの音域が出せる男性ソプラノ歌手──ソプラニスタです。天から与えられたその声はまさに奇跡。キャリアを積み重ね、今、充実の時を迎えています。そんな木村さんが、10月に久々のコンサートを開きます。
彼が声楽家の道を歩む過程には、いつも周囲の理解とあたたかな応援がありました。このこともまた奇跡と言えるでしょう。
歌うことが大好きなボーイソプラノの少年がどのようにして声楽家になっていったのか、じっくりと話していただきました。また声のケアなど声楽家の日常や、楽しみなコンサートのことについてもお話をうかがいました。
声楽家になるまで
ボーイソプラノの僕は、ずっとソプラノのままだった
──音大を受験するまでについて教えていただけますか。
中学生の頃
母が声楽をやっていたので、家で母が歌ってくれるソプラノの声がとても心地よくて、母の真似というかこういうふうに歌いたいという憧れがありました。母と一緒に歌っているうちにソプラノになっていたんです。母が言うには物心ついた時からボーイソプラノだったそうです。
そのままずっとボーイソプラノで、さすがに中3あたりでもう声変わりするだろうから、そのうちこの声ともお別れだなと思っていました。でもソプラノで歌うことは変わらずにできました。
中3の時に新しい音楽の先生がいらして、学期末の歌の試験の時に僕の声をとてもほめてくださったんです。自分の声って好きだけれど恥ずかしいな、とちょっと思っていて、もうそろそろ声が出なくなるだろうという時期に、先生にほめられたことがとても励みになりました。
その数カ月後に行われる文化祭で、ソロで歌うよう先生に勧められました。両親にも話したのですが、特に母が歌ってみたらと言ってくれました。結局本番で歌ったんです。それが大舞台の「第一歩」でした。中高一貫の学校に通っていたので文化祭は6学年一緒にやるんです。
ありがたいことに同級生、下級生、上級生、誰も変な声、とかなんだあいつ、などと言う人はいませんでした。むしろすごいねとか、今まで知らなかったよ、と言ってくれました。それが大きかったと思います。そこで自信がついた。
それからは「お歌の木村くん」みたいな感じで認知されましたね。ただ、まだその頃は声楽の道に進もうとは思っていませんでした。
高校生になって
中3から高1になった時にもうひとり、音楽の先生が登場します。その先生は声楽が専門でした。東京の大学で学んだ先生が話してくださる内容は魅力的でした。休み時間にちょこちょこ歌を聞いていただいてました。先生は「あなたはソプラノねえ」と。ちょうど米良美一(※1)さんの人気が出てきた頃だったので、こういう声種もあるかもしれないと考えてレッスンしてくださいました。
可能性を最大限に活かしてくださって、音域を持っているならちゃんと使いなさいと。その時にはもう話し声が変わってきていました。子どものソプラノから大人のソプラノになっていくときで、「ものすごくデリケートだから、本当に気をつけて練習してね」と言われました。
難しさもだんだんわかってきていましたが、音域も広がってできることが増えていくので、もう歌が楽しくて楽しくて。
熊本に無料で参加できる歌のコンクールがあるんです。それに出てみたいと先生に相談しました。当時は自分の声はカウンターテノール(※2)と言っていたのですが、先生からはカウンターテノールが出場したことは一度もないからどう評価されるかは全くわからないし、参加者も多いので全然ダメかもしれない。でも無料だし記念に受けてみたら、と言われました。
中学の音楽の先生に伴奏していただいて。休み時間とかにちょっとみてもらっているだけで出てしまったんです。そうしたら運よく賞がもらえました。
高1の終わりくらいに先生にプライベートでレッスンに行ってもいいですかとお願いし、そこから本格的に声楽のレッスンが始まりました。
※1 米良美一:カウンターテナー歌手。1997年(木村優一14歳の頃)公開のアニメ映画『もののけ姫』主題歌によって人気を博すと同時に、カウンターテナーという存在を日本に広く知らしめた。
※2 カウンターテノール:カウンターテナーとも。ソプラノ~アルトの女声域を歌える男性。
進路を決める
高1の終わりくらいに音大受験をしようかなと思い始めました。同じクラスに音楽をやっている人がいたんですね。ヴァイオリンをやっている子と、ヴィオラをやっている子がいました。特に親しかったのはヴィオラをやっている女の子でした。
みな最初は音楽には進まないつもりだったんです。放課後に「音大がんばろうか」など毎日進路の話をしていましたね。ある日は「教育学部の音楽はどうだろう。だったら勉強もやらなきゃね」、でもすぐ別の日には「やっぱり芸大に行きたいね」、という感じ。青春ですね。
ある時、ヴィオラの子が「芸大にしよう、一緒に芸大に行こうよ」って言ったんです。母に話すと「芸大? 無理じゃない?」と。母は音楽をやっているからこそ厳しさをよく知っているので、最初は軽く止められたんです。泣きながら説得しました。母は父にも話してくれて応援してくれることになりました。
芸大受験
受験はテノール科を受けました。テノール科でしか受けられなかったんです。でもソプラニスタの歌声で歌ったんです。
テノールも歌えるんでしょって言われるけれど、歌えないです。全然違うんですよ。
大学には現役で合格できました。
20代はプロフェッショナルな声楽家になるための準備期間
──大学に進学してから変化はありましたか。
大学に入学してからは大変でした。高校時代は10代の勢いがあったというか、コンクールで成績を残せるようになり、全国大会にも出場したり。それによって新聞に載ったりするんです。インターハイの開会式でも歌ったんですが、それでテレビに映る。
そんなわけで周りが騒ぎ出したし、熊本では名前を知られている高校生だったんです。その勢いのまま大学に行ったわけですが、そこからは大変でした。
20代は種まきの時期でした。いろいろな出会いがあったし楽しいこともあったけれど、辛くて気持ちが内にこもってしまいました。
大学に入ってみると自分でも薄々気づいていたのですが、洗練された歌、ちゃんとバランスの取れた歌っていうのをいっぱい聞くわけです。全くそこに自分は到達できていない。
だんだん人前で歌いたくなくなっていました。「あれ、声量もなくなっちゃったし、ヘロヘロ歌っているし。どうしちゃったの?」なんて言われたこともあったし。それが辛かったです。ただ光は見えているんですよ。ここに行きたいというのはあったので、先生についていこうという気持ちはありました。ひたすら我慢の時期でしたね。
後編では、声楽家としての日常、また、約3年ぶりとなる10月のソロリサイタルについてお話していただきます。お楽しみに!
ソプラニスタ木村優一
2022年オータムコンサート
『歌う喜び』
2022年10月10日(月・祝)
会場:大手町三井ホール
開演:15時
★ チケット料金
6,000円(入場時別途ワンドリンク代)
詳しくは:キャピタルヴィレッジ
プロフィール
木村優一|Yuichi Kimura
又、アーティスト活動と並行してNPO法人音楽で日本の笑顔をに従事し、スマイル合唱団、青春ポップス合唱団や被災地での音楽を通じたボランティア活動を続けている。
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