伝説のダンサー「ルドルフ・ヌレエフ」の軌跡をたどる|2023年7月没後30年記念公演が開催予定
2023年は、ソ連で生まれ、フランスに亡命した伝説のダンサー ルドルフ・ヌレエフの没後30年です。
2023年7月26日〜30日、東京文化会館にてパリ・オペラ座バレエ団の来日公演、「ルドルフ・ヌレエフ没後30年記念〈オペラ座ガラ〉―ヌレエフに捧ぐ―」が開催されることになりました。
本記事では、ヌレエフの人生や功績をたどります。ヌレエフの偉大さや後世に残した影響を振り返りましょう。
ルドルフ・ヌレエフとは
ルドルフ・ヌレエフは、ソ連出身のダンサーです。
ダンサーとしての類い希なる才能と生き方、第二次世界大戦〜冷戦下での壮絶な人生が相まって、現在でも伝説的で唯一無二のダンサーとして高い評価を受けています。名ダンサーの発掘、数々の振付・演出など、後のバレエ界に与えた影響も非常に大きいです。
数々の書籍、映画化もされているので、そちらもぜひ公演の前に触れてみてください。
1. ルドルフ・ヌレエフの経歴
ヌレエフの人生はまさに波瀾万丈です。
誕生からキーロフ・バレエ団での活躍、ソ連からの亡命、パリ・オペラ座バレエ団の芸術監督就任とキーポイントごとにヌレエフの経歴を振り返ります。
誕生〜17歳 レニングラード・バレエ学校に入学
ワガノワ・バレエ・アカデミー 正面玄関
ヌレエフは、1938年3月17日前後、シベリア鉄道の車内で誕生しました。鉄道内で生まれたため、正確な誕生日や時間はわかっていません。
軍人で愛国心が強い父、カザン(ロシア連邦・タタールスタン共和国の首都)出身の母のもとに生まれました。ルドルフは、ヌレエフ家初の男児です。
ルドルフ誕生の翌年、第二次世界大戦が勃発し、父は遠い前線へと送られます。そのため、ルドルフは幼少期まで父の顔を知りませんでした。戦争の影響もあり、ヌレエフ家は裕福ではなく、ルドルフの幼少期は飢えと寒さとの戦いだったそう。
ルドルフと舞踊の出会いは、民謡に合わせた踊りでした。初めて踊りを見た日、帰宅するやいなやルドルフは踊り出したそうです。
1945年、ルドルフに転機が訪れます。地元ウーファで、ボリショイやキーロフのダンサーを招いた特別公演が行われたのです。
ルドルフの母は、たった1枚のチケットしか持っていませんでしたが、劇場に人が殺到した混乱に乗じて5人全員で鑑賞することができました。ルドルフにとって、きらびやかな劇場内、そして華やかな踊りは衝撃的でした。
この夜に、ルドルフは「ダンサーになる」と決意したそう。
その後、11歳のときに出会った女性教師ウダリツォーヴァに才能を見出され、クラシックバレエの基礎を学びます。
17歳でワガノワ舞踊学校(現:ワガノワ・バレエ・アカデミー)のオーディションを受け、8番目のクラスに入学することを許されました。学校では、第二の父ともいえる恩師 アレクサンドル・プーシキンに師事します。
キーロフ・バレエ入団
学校卒業後、20歳でキーロフ・バレエ(現:マリインスキー・バレエ)に入団したヌレエフは類い希な才能で頭角を現し、23歳でソリストに昇格しました。
『ローレンシア』『ドン・キホーテ』『ガヤーネ』『ジゼル』『ラ・バヤデール』『くるみ割り人形』など数々の作品で役を踊り、熱狂的なファンも付く活躍ぶりでした。
一方、『ジゼル』2幕のコーダの振付や、衣装を丈の短いものに変更するなど、独自のスタイルによる表現は、バレエ団内から反感を買うことも多々ありました。
また、外国人ダンサーと接触するなど、冷戦下でのソ連では違反行為とされていたことを行い、KBG(ソ連国家保安委員会)から危険視されていたようです。
そして1961年、ヌレエフの運命を変えるヨーロッパツアーが始まります。
1961年 亡命 英国ロイヤルバレエ団で活躍
1961年5月、120名ものダンサー・音楽家・技術者などを連れたキーロフ・バレエのヨーロッパツアーがスタートしました。最初の巡業先はパリです。
パリ・オペラ座で、ヌレエフは『ラ・バヤデール』の主役 戦士ソロルを踊り、鮮烈なパリデビューを果たしました。ほかにも『白鳥の湖』などの作品で踊っています。
公演前後には熱心にパリの街を歩き、美術や街を楽しみました。また、パリ・オペラ座バレエのダンサー ピエール・ラコットや文化大臣の息子の婚約者クララ・サンなどと仲良くなります。
パリから次の巡業先であるロンドンへ発つ日、ヌレエフ一人だけがレニングラードに戻るよう言われます。政府による命令だと気付いたヌレエフは、ピエールに助けを求め、ピエールやクララの助けを元に、空港警察に「I want freedom.」と告げて亡命します。
ヌレエフは、ソ連から亡命した初のダンサーとなり、世界的に大きな話題を呼びました。
亡命後すぐは、マルキ・ド・クエヴァス・バレエ団で踊っていましたが、その後契約解除。
英国ロイヤルバレエ団と契約し、当時の大プリマ マーゴット・フォンテインと運命的な出会いを果たしました。
マーゴット・フォンテイン|TV番組「ザ・ハリウッド・パレス」に出演したフォンテインとヌレエフ(1965年)
フォンテインは当時42歳で引退寸前でしたが、19歳年下のヌレエフと共演することでフォンテインは若々しさを、ヌレエフは気品を手に入れました。
『眠れる森の美女』『白鳥の湖』『ロメオとジュリエット』などで息の合ったパートナーシップを披露し、後に「世紀のコンビ」と呼ばれるようになります。
また、ローラン・プティやジョージ・バランシンなどの振付家とも共演し、現代作品にも挑戦しました。
パリ・オペラ座バレエ団の芸術監督に
ヌレエフは、1983年から1989年までパリ・オペラ座バレエ団の芸術監督を務めました。
『ドン・キホーテ』『ライモンダ』『眠れる森の美女』『白鳥の湖』などの古典作品を改訂したほか、『ロミオとジュリエット』『シンデレラ』などの新作を上演しました。
パリ・オペラ座バレエ団芸術監督としての功績は、後ほど詳しく紹介します。
芸術監督就任後、AIDSの診断を受けたヌレエフの人生後期は闘病と共にありましたが、最期を迎える直前まで精力的に舞台表現の道を歩み続けます。
芸術監督を退任した後、1992年にプティパ版をベースとしたヌレエフの新作『ラ・バヤデール』が発表されます。この作品が彼の遺作となり、また、この公演のカーテンコールへの登場が最後の舞台となりました。
1993年、AIDSによる合併症のため54歳で亡くなりました。
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