エドゥアルト・メーリケ『旅の日のモーツァルト』ドン・ジョヴァンニ初演までのひと時 小説を彩るクラシック#16
ヴォルフガン・アマデウス・モーツァルト『ドン・ジョバンニ』
夜の8時を過ぎ、一同は『ドン・ジョバンニ』のラスト「地獄の炎」の場面を詳しく教えてほしいとモーツァルトに頼みます。モーツァルトは『ドン・ジョバンニ』全曲の中から抜粋していくつかの曲を演奏しながら、「地獄の炎」の場面を作曲したときのことを語り出します。
ある夜、開かれていない封筒がふと目に留まり、それを開けると脚本家ダ・ポンテからのものでした。そこには『ドン・ジョバンニ』のフィナーレの墓地の場面、主人公の破滅の場面が書かれており、モーツァルトは「ずぬけた詩人よ、素晴らしい」と心の中でダ・ポンテに謝辞を送り、頭に浮かんできた音楽を奏で始めたそうです。
モーツァルトはこの場にいる人たちに向けて「お聞きください」と言い、蝋燭の灯りを消して演奏を始めます。
演奏は妖しく美しく、不気味と同時に崇高、その圧倒的な音楽を聴き終え、一同は静まり返ってしまいました。
翌日、誰よりもモーツァルトとの邂逅に心を動かされたオイゲーニュはこう思います。
「この人は速やかに、引きとどめるすべもなく、彼自身の情熱に焼きつくされてしまうのだ、彼はこの世におけるはかない現象でしかありえないのだ、なぜなら現世は彼の身から迸り出る生命の奔流にとうてい堪えきれないであろうから」
こんなに簡潔に、美しく、モーツァルトの天才性を表す言葉もないと思います。
モーツァルトの才能に、モーツァルト自身がいずれ耐えられなくなるということをオイゲーニュは示唆しているのですが、事実この天才音楽家は才能のすべてを燃やし尽くして35歳という若さで逝ってしまいます。
『フィガロの結婚』から『ドン・ジョバンニ』の初演を行う前の絶頂期の一夜を描き、そこに暗い影を落とし込むことで、この作品は、メーリケによる美と苦さのシンフォニーのように仕上げられています。
物語はフィクションではあるのですが、ここで描かれるモーツァルトは、瑞々しく、天真爛漫に咲き誇っています。咲いた花はいずれ散ってしまうのですが、散ってしまう前の瞬間を、詩人は捉え、結晶化させました。
オペラ好きの方も、文学ファンも楽しめる作品ですのでぜひ手に取ってみてください。
参考文献
エドゥアルト・メーリケ(1974年)『旅の日のモーツァルト』宮下健三訳 岩波文庫
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