『展覧会の絵』って絵?音楽?現代に受け継がれる印象派音楽家ムソルグスキーの名曲を聴いてみよう
3. ピアノ組曲『展覧会の絵』は、ムソルグスキー存命中に日の目を見なかった!?『展覧会の絵』を巡る歴史の話
3.1
ムソルグスキーは印象派クラシック音楽の先駆者の一人
Wikimedia commonsよりムソルグスキー肖像
ムソルグスキーの作りだす音楽は、ロシア固有の旋法(メロディーの組み立て方)や和声(ハーモニー)、変則的なリズムを大胆に使い、独特で荘厳で高揚感のある世界観があります。ドビュッシーと並び、印象派クラシック音楽の先駆者の一人とも言われています。
印象派というのは絵画の文脈から生まれた芸術のスタイルで、とても乱暴なまとめ方をすると「雰囲気や印象や情景を描こうとする」作風です。
これまで主流だった「聖書やギリシャ神話や伝承などの、具体的なドラマや強い感情」を描こうとする新古典主義・ロマン主義では、対象物をはっきり描こうと、絵画ならば輪郭と線を明確で鮮明で写実的に描き、音楽ではこの人にはこのテーマソング!のような明確な意味やストーリー付けを行っている作風です。
それに対し、印象主義絵画では筆跡をあえて残して光でぼんやりした風景などを描き、音楽ではモチーフに抱くイメージを浮かばせるような、曖昧で自然、身近な雰囲気をもった曲を作りました。
このあたりの印象派の成り立ちや概要を簡単に解説してくれている漫画を紹介します。
印象主義は聖書・ギリシャ神話の前提知識を共有していなくても描きたいものが伝わってくるスタイルでもあります。ですので、多民族国家のアメリカや、独自の宗教観をもっている日本では、新古典主義・ロマン主義よりも受け入れやすかったようです。
3.2
驚愕!?ムソルグスキー存命中は封印作品!!モーリス・ラヴェルにより、フランスで一躍有名に
ピアノ組曲『展覧会の絵』は、実はムソルグスキーの生前には全く知られていませんでした。
ムソルグスキーは追悼を兼ねたこの曲を、先述のハルトマンの遺作展から半年ほどの短期間で作ったらしいのですが、その後公的に発表することなく、演奏会での発表も、楽譜の出版もしないまま放置していました。
書簡に、「絵画のような曲をオペラ作曲の気晴らしに書いたんだけど」というようなことが書かれていたくらいだったようです。
そのままアルコール依存をこじらせてムソルグスキーが死去した後、同時期の音楽家リムスキー・コルサコフによって遺稿整理のなかで発見され、ピアノ譜の出版に至ります。
そしてこれをもとにしたラヴェルによるオーケストレーションにより、瞬く間にフランスで有名となりました。
ここまで人気になれる曲をどうして死蔵してしまったのかは、はっきりとは分かっていません。
3.3
ムソルグスキーの略歴 孤独と苦難が立ちふさがった生涯
モデスト・ムソルグスキーは、19世紀後半に活躍した「ロシア五人組」と呼ばれる音楽家の一人です。
1839年、現在のロシア西端にあるプスコフ州で生まれました。地主階級の裕福な家に生まれ、6歳からピアノを習います。
1849年、10歳で名門校に入り、12歳で父の出費によって初めてポルカの楽譜を出版。13歳で士官候補生として士官学校に入ります。士官学校では当時の過酷な教育に傷つきつつも、一方でピアノの才を認められ、学友たちのために演奏などを行っていたようです。
士官学校卒業後は、後に「韃靼(だったん)人の踊り」で有名なオペラ『イーゴリ公』を作るボロディンと親交を深めながら、ともに軍の病院に務めていました。そんななか、ムソルグスキーは当時ロシアの音楽家の重鎮であったダルゴムイスキーに見出されます。
それからはロシアの多くの文化人と出会い、軍を退役。ピアノ以外のレッスンは受けてこなかったムソルグスキーは、「ロシア五人組」の一人バラキレフによって、ピアノ以外の音楽についての指導を受けます。
やがてバラキレフから独立し、公務員として働きながら作曲を行っていきます。26歳でいよいよ、親や師匠によらずに独力で作った曲を出版するなど、音楽家として自立していきます。しかしこの時期、母の死の悲しみによってアルコール依存が始まってしまいます。
その後公務員の仕事は安定せず、貧窮に喘ぎながら作曲を続けていました。現代日本の感覚では公務員は安定した職業のように思われますが、当時のロシアの公務員は労働力が余って仕事がなく、給料もゼロ、という事態もある不安定な職業でした。
1871年から1873年にかけてオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』を制作、改訂を加えた上で初演に至ります。このオペラは評論家受けは悪くとも観客受けがよく、ムソルグスキー存命中最大の成功となりました。
しかしその後アルコール依存が悪化。親友のハルトマンの死に始まり、身近な人々が結婚などを機に次々と離れて孤独になり、ますますアルコール依存を深めていきます。
作曲は行いながらも私生活は荒んでいき、一時的に公務員の仕事が音楽活動に寛容になった時期があるものの、1880年に失職。友人たちが寄付を募ってムソルグスキーの作曲活動を支援しようと努めましたが、1881年に彼は心臓発作を起こして他界します。42歳の若さで、多くの作品を未完で遺したまま、世を去ってしまいました。
3.4
ハルトマンについて
Wikipedia commonsよりヴィクトル・ハルトマン
ヴィクトル・アンクサンドロヴィチ・ハルトマン(ロシア語読みのガルトマンと表記することもある)は、ロシアの建築家兼画家です。鉛筆画や水彩画を描いており、芸術の絵だけでなく設計図やデザイン画のような実用向けの絵も残っています。
幼少期に両親が亡くなって建築家のおじに引き取られます。
やがて、帝国美術アカデミー(現在のサンクトペテルブルク美術大学)で学び、挿絵の仕事などをしていましたが、最終的に建築家を本業に選びました。
ノヴゴロドにあるロシア建国一千年祭記念碑像を、彫刻家ミハイル・ミケシンとともに制作しています。建築家として働きながらも芸術家としての手腕も振るっていて、壁画や装飾などを自ら現場に赴いて手掛けていたそうです。
ロシア建国一千年祭記念碑像
このファイルはWikimedia Commonsを出典とし、クリエイティブ・コモンズ 表示-継承 3.0 非移植ライセンスのもとに利用を許諾されています。
1864年から1868年にかけてはフランスを中心に諸国を見て回り、様々な建築などをカメラ撮影やスケッチして研究していました。テュイルリーの庭やリモージュの市場の元になった絵は、この時に見た光景だと思われます。
帰国後は建築だけでなく、オペラやバレエの舞台芸術、展示会場なども手掛け、1870年にムソルグスキーと出会い、親友になります。
しかしそれからほんの3年後の1873年、39歳の若さで動脈瘤によって亡くなってしまいます。死の翌年に、件の遺作展が行われています。
ハルトマンの絵画はそのほとんどが散逸、遺失してしまいました。
手掛けた建築物も、元々短期で解体してしまう展示会場であったり、計画倒れで建造に至れなかった建物などが多く、現存しているのは一棟のみ、それ以外は写真などでしか振り返ることができません。
本当ならもっと多くの名建築を残せたかもしれず、早すぎる死が悔やまれます。
次のページ:現代ポップカルチャーへの影響|まとめ
この記事へのコメントはありません。