恩田陸『蜜蜂と遠雷』×J.S.バッハ『平均律クラヴィーア曲集 第一巻』~小説を彩るクラシック#30
J.S.バッハ
『平均律クラヴィーア曲集 第一巻』
第6回芳ヶ江ピアノコンクールが始まりました。
一次予選の課題曲は以下のように定められています。
(1)J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集より1曲。ただし、フーガが三声以上のものとする。
(2)ハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンのソナタより第1楽章または第1楽章を含む複数の楽章
(3)ロマン派の作曲家の作品より1曲
※演奏時間は合計で20分を超えてはならない。
高島明石
バッハ「平均律クラヴィーア曲集 第一巻第二番ハ短調」
明石はコンクールで弾く曲を、プログラム提出ぎりぎりまで迷っていました。彼が決めたのは平均律クラヴィーアの第一巻第二番でした。
コンクール会場で妻の満智子は「目が開かれる思い」で明石の演奏を聴きます。
明石の音は、違う。同じピアノなのに、さっきの人とは全然違う。
明快で、穏やかで、しっとりしている。活き活きとした表情がある。
明石のバッハは、ずっと聴いていたくなるような、彼の人柄が表れた演奏でした。
マサル・カルロス・レヴィ・アナトール
バッハ「平均律クラヴィーア曲集 第一巻第六番ニ短調」
マサルは、ステージに姿を見せただけで「特別な人間だ」とわかるほどの存在感を放っていました。
観客席の亜夜はマサルのバッハをこう評します。
なんてチャーミングなんだろう。その瞬間、彼の音とその音を生み出す彼自身に、観客が恋したのが分かった。
それにしても、弾く人でこうも音が違うものか。
知ってはいても、そのことを目の当たりにすると改めて不思議でたまらない。
基本中の基本とはいえ、杓子定規に弾くとBGMのように聞き流せてしまう平均律クラヴィーアが、こんなにいきいきとスリリングに聴けるなんて。
一音一音が深く、豊かで剥き出しではなく、ビロードで包んだかのよう。なのにちゃんと、シンプルでちょっとシニカルなバロックの響きがする。
貴公子ならではの優雅で、余裕がある演奏に観客も審査員も舌を巻きます。
風間塵
バッハ「平均律クラヴィーア曲集 第一巻第一番ハ長調」
風間塵は、バッハの平均律の第一巻第一番を選んでいました。この超有名曲をコンクールで弾くことは、普通のコンテスタントには勇気がいることで、マサルは「無邪気な天然なのか、それとも確信犯なのか」と、考えこんでしまいます。
飾り気のない「少年」といった佇まいで塵は現れ、バッハを弾き始めます。
自身もホフマンに師事していたナサニエル・シルヴァーバーグはその演奏にショックを受けます。
なんだ、この音は。どうやって出しているんだ?
まるで、雨のしずくがおのれの重力に耐えかねて一粒一粒垂れているような――
どうしてこんな、天から音が降ってくるような印象を受けるんだ?
シルヴァーバーグはホフマンの弟子ではあったのですが、コンクールへの推薦文など書いてもらったことはなく、自分の元に教えにやってきたこともありませんでした。シルヴァーバーグは、ステージの少年に嫉妬に似た感情を覚えます。そして自分の愛弟子マサルに一層期待をかけます。
栄伝亜夜
バッハ「平均律クラヴィーア曲集 第一巻第五番ニ長調」
亜夜は、塵の演奏に感銘を受けていました。
あたしもあんな風に弾きたい、かつてはあたしもあんな風に弾けたんだ。神様と遊ぶように。
終わった人、消えた天才少女、そんな好奇にさらされながら亜夜はステージに立ちます。
モノが違う。
観客席にいた明石は、亜夜が弾き出した瞬間にそう思います。
ああ、そうか、これはコンクールだったんだ、これまでうまいだの下手だの言っていたのは、しょせんアマチュアの評価に過ぎなかったんだ。
シルヴァーバーグも亜夜の演奏に目を見張ります。
際立って成熟している。無邪気な子供たちのあいだに、老成した大人が紛れこんでいるかのような、「本格的な」音楽。高い技術がすっかり音楽の一部になっているので、もはや技巧は耳につかず、思わず引きこまれ一鑑賞者として聴いてしまう。
シルヴァーバーグは、マサルの強敵になるのは、塵ではなくこの子のほうだ、と確信します。
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