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神様がドタバタ騒ぎ!オッフェンバックのオペレッタ『天国と地獄/地獄のオルフェ』のあらすじや曲を紹介

ジャック・オッフェンバック

「1860年代のジャック・オッフェンバック」ナダール撮影、出典:Wikimedia Commons

ジャック・オッフェンバックはドイツ・ケルン生まれのユダヤ人ですが、14歳の時にパリ音楽院に入学しフランスに来ました。以来、パリを拠点に活動し、フランス国籍に帰化しています。

パリ音楽院を1年で中退してからはチェロ奏者として劇場に勤め、チェリストとして名声を得ました。人生の転機となったのは30代半ば、自身の劇場「ブフ・パリジャン座」を開いたことでした。オペレッタ『天国と地獄』もこの劇場で初演しています。


当時パリの劇場は国家が厳格に管理していたため、作曲家が自由に作品を公演することが困難でした。オッフェンバックは、”10年間オペラ・コミック座に作品を持ち込んだが、演奏を許されなかった”と語っています。

「ブフ・パリジャン座の観客の挿絵」(中央上部にオッフェンバック)1860年頃、エミール・バヤール画、出典:Wikimedia Common

自身の劇場を持っていても、厳しい規則は変わりません。ブフ・パリジャン座も音楽付き劇の登場人物数が制限され、合唱も許可なく入れることはできませんでした。


これに反発したオッフェンバックはある時、あえて制限数より1人多い登場人物を投入。この登場人物は舌を切られてしゃべることができないという設定で、プラカードを持ってセリフを書き込んでいきました。これが観客に大いに受け、ブフ・パリジャン座の制限は緩和されていきました。

パロディの申し子オッフェンバックに餌食にされた作曲家の一人に、ジャコモ・マイアベーア(1791-1864)がいます。マイアベーアはパリで圧倒的な人気を誇ったオペラ作曲家で、『悪魔のロベール』などの代表作が頻繁にパロディ化されました。
マイアベーアはオッフェンバックのパロディによって、自分のオペラ人気が上がることが分かっていました。両人ともドイツ出身のユダヤ人で、パリの音楽界で活躍する良き友人だったのです。

ジャック・オッフェンバックの略歴

[1819年 0歳]
6月20日、ドイツ・ケルンのユダヤ人家庭に生まれる。

[1833年 14歳]
パリ音楽院に入学。

[1834年 15歳]
パリ音楽院を自主退学。劇場のチェロ奏者になる。

[1839年 20歳]
パレ・ロワイヤルでの初の公開演奏会が失敗。故郷ケルンで演奏会。

[1844年 25歳]
ロンドン、ヴィクトリア女王の御前でチェロ演奏。カトリックに改宗しエルミニ・ダルカンと結婚。

[1848年 29歳]
二月革命によりケルンへ避難、後パリに戻る。

[1855年 36歳]
パリ万博期間中の7月5日、シャンゼリゼ通りに「ブフ・パリジャン座」を開く。こけら落としの小オペラ『二人の盲人』がヒット。

[1858年 39歳]
オペレッタ『天国と地獄/地獄のオルフェ』初演。翌6月5日まで228回続演の大成功。

[1860年 41歳]
フランスに帰化。

[1864年 45歳]
オペレッタ『美しきエレーヌ』ヴァリエテ座初演。「オッフェンバキアード(オッフェンバックの時代)」と呼ばれる黄金期。

[1870年 51歳]
普仏戦争勃発。オッフェンバックの人気が落ち始める。

[1872年 53歳]
新ジャンルの夢幻オペレッタ『にんじん王』ゲテ座初演。

[1874年 55歳]
改訂版『天国と地獄/地獄のオルフェ』ゲテ座上演、185公演の大成功。上演費用がかさみ破産。

[1876年 57歳]
アメリカ演奏旅行。帰国後、オペラ『ホフマン物語』制作に取り掛かる。

[1880年 61歳]
10月5日死去。

[1881年]
2月10日、オペラ『ホフマン物語』オペラ・コミック座初演(エルネスト・ギローの補筆)。

オッフェンバックの名曲

「舟歌」、オペラ『ホフマン物語』より|Barcarolle “Les Contes d’Hoffmann”

映画『ライフ・イズ・ビューティフル(La Vida es Bella)』より

オッフェンバックの未完のオペラ『ホフマン物語』の女声二重唱です。世界で最も美しい旋律と言われています。1997年公開のイタリア映画、『ライフ・イズ・ビューティフル』の挿入曲としても有名になりました。

アナ・ネトレプコ(ソプラノ)、エリーナ・ガランチャ(メゾソプラノ)

『ホフマン物語』の第4幕開始前、ヴェネチアの高級娼婦ジュリエッタ(ソプラノ)と、芸術の女神ミューズ(メゾソプラノ)により歌われます。

オペラ『ホフマン物語』は、多作のオッフェンバックにしては珍しく時間をかけた作品で、1876年に取り掛かって以降、死の間際まで手を入れ続けました。1880年10月、オッフェンバックは『ホフマン物語』の楽譜に修正をしながら「今夜でお別れになると思う」と家族に告げると、翌未明に息を引き取りました。

『ホフマン物語』に登場する、歌えば死ぬ運命にある歌姫アントニアのように、オッフェンバックは命を削って最後のオペラに自身の全てを込めたのかもしれません。

まとめ

『ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会』ルノワール画、1876年、出典:Wikimedia Common

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

オペレッタ『天国と地獄/地獄のオルフェ』は底抜けに明るくて、誰にでも楽しめる作品です!会場が一体となって音楽の渦に巻き込まれるような、楽しい音楽体験が得られるにちがいありません!

オペラって、素晴らしい!

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神保 智 じんぼ ちえ 桐朋学園大学音楽学部カレッジ・ディプロマ・コース声楽科在学中。子どものころから合唱団で歌っていた歌好き。現在は音楽大学で大好きなオペラやドイツリートを勉強中。

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