はじめてのチャイコフスキー(2)

2 チャイコフスキーとバレエ

チャイコフスキーの三大バレエ、『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』(初演の衣装デザインの写真。キャプションも流用)は、いずれも劇場からの依頼で作曲された作品である。いずれも古典バレエを代表する作品であり、チャイコフスキーの代表作でもある。

当時、バレエ音楽は踊り手の伴奏程度にしか考えられていなかったが、劇場から依頼されバレエ音楽を作曲することは、経済的な安定にもなり若い音楽家たちにとって名声を得るための良い機会であった。

チャイコフスキーがバレエに携わることができたのは、当時オペラやバレエが流行していた時代であり、モスクワ帝室ボリショイ劇場の監督官であるベギシェフとの交友があったことによるところが大きい。チャイコフスキーは、以前からバレエ音楽に対して興味があり、金銭的にも魅力を感じており、ベギシェフから『白鳥の湖』の作曲を委嘱され、引き受けている。

当時のバレエ作曲、例えばレオン・ミンクスは『パキータ『ドン・キホーテ』『ラ・バヤデール』』等の作品を作曲し、帝室劇場の専任作曲家だった。1881年にイワン・フセヴォロシスキーが帝室マリインスキー劇場監督官に就任した5年後、ミンクスは解雇される。フセヴォロシスキーはバレエ界の衰退を危惧し、新しい音楽を取り入れたいと以前からチャイコフスキーの才能に目をつけており、『眠れる森の美女』と『くるみ割り人形』の音楽をチャイコフスキーに依頼したのだった。

チャイコフスキーはバレエ音楽を芸術に昇華したと言われる。チャイコフスキーはバレエ音楽をどのように捉えていたのだろうか。

チャイコフスキーのバレエ音楽に対する考えは、手紙等で残っており、一部を引用する。

ミンクス等のバレエ音楽と自身のバレエ音楽は違うと前置きした上で、「(前略)私は音楽を筋立てに引き入れることに努め、舞踊や演劇表現と論理的に対応し得るような音楽を作曲するよう努力するつもりだ」と述べている(注2)。

バレエ音楽の作曲は、曲数が多く、台本や振付による制限も多かった。『眠れる森の美女』の振付家、マリウス・プティパが送った構成台本には人物たちのアクションや拍子、小節数、音楽技法まで、事細かく指示されている。チャイコフスキーはプティパからのたび重なる音楽の変更依頼を快く受け入れ、大変協力的で、音楽と物語を一体化させた。

注2:音楽之友社編『チャイコフスキー(作曲家別名曲解説ライブラリー)』p.59

3 代表作品

『ピアノ協奏曲第1番 変ロ短調』Op.23

1874-1875年作曲。壮大で華やかな導入からピアノの和音の打鍵で始まる。ウクライナ民謡が第1楽章と第3楽章に用いられている。

作曲中からモスクワ音楽院長であるニコライ・ルビンシテインに弾いてもらいたいと考えており、12月21日に2台のピアノ版を完成させると、アドヴァイスを求めニコライに曲を披露したが、感想は酷いもので、ほとんどを書き直すようにと酷評を受けた。チャイコフスキーはショックを受け悲しんだが、一音も変えずに出版すると言い、その意思を貫いた。

翌年、オーケストレーションを完成させると、アメリカのボストンで1875年10月25日にハンス・フォン・ビューローのピアノで初演され、大成功を収めた。ビューローはこの作品を高く評価した。その後、各地で演奏される機会が増えるとヨーロッパへも広まり、作曲家として名声を博していく第一歩の作品となった。

『弦楽合奏のセレナード』ハ長調 Op.48

1880年作曲。弦楽オーケストラのための作品でワルツ(第2楽章)を含む4楽章構成。モスクワ音楽院で教鞭をとっていたときに出会った友人のチェリスト、コンスタンチン・カールロヴィチ・アルブレヒトに献呈されている。1881年、ペテルブルクでエドゥアルド・ナープラヴニーク指揮、ロシア音楽協会オーケストラで初演された。

「交響曲か弦楽五重奏曲の曲を書き始めた」、それが「弦楽合奏のための組曲」になり、「最終的に1カ月ほどで作曲し」たとメック夫人へ書き送っている。チャイコフスキーはこの作品の第1楽章をモーツァルトへのオマージュとしている。

振付家ジョージ・バランシンはバレエ・リュス解散後アメリカに渡り、この曲を使用して1934年に『セレナーデ』を作った。渡米後初めて振り付けた作品で、学校の生徒のために作ったので技術的にそれほど難しいものではない。プロットレス・バレエ(物語のないバレエ)の傑作であり、バランシンの代表作でもある。現在でも世界中で踊られている。

『交響曲第6番「悲愴」ロ短調』 Op.74

1893年作曲。4楽章構成。同年10月16日に初演、その9日後にチャイコフスキーは逝去した。“死”のイメージを彷彿とさせる交響曲であるが、日本語訳の“悲愴”は、ロシア語では“熱情”または“強い感情”という意味合いである。甥であるウラジーミル・ダヴィドフへ捧げられ、ダヴィドフへ宛てた手紙には「この交響曲は、わたしの作品の中でまちがいなく最高の、いわば、もっとも“心のこもった”作品だ。この交響曲を愛する気持ちはとても強く、これまでにつくった全作品への愛情がかすんでしまうほどだ」(注3)と書いた。チャイコフスキー自身、強い思い入れがあり、時間をかけて制作された。アメリカの演奏旅行中であった1891年4月から構想を練り始め、1893年8月19日にオーケストレーションを完成させた。

注3:音楽之友社編『チャイコフスキー(作曲家別名曲解説ライブラリー)』p.171

バレエ『眠れる森の美女』Op.66

初演のキャスト
出典:Wikipedia

チャイコフスキーの三大バレエの一つ。指揮でヨーロッパ各地で活躍していた時期、1888年に帝室マリインスキー劇場から委嘱された。10月から作曲に取りかかり、1889年8月に完成。「最高の音楽。筋がとても詩的、音楽的に素晴らしく、創作中とても感激」(注4)とメック夫人に宛てた手紙から、非常に楽しい仕事でありインスピレーションの赴くままに書き上げられた作品であることがうかがえる。1890年1月3日にペテルブルクで初演されたが、自己評価とは裏腹に聴衆やメディアの反応は芳しくなかった。

プロローグと3幕からなる。シャルル・ペローの『眠れる森の美女』を原作としている。魔女の呪いで100年の眠りについたオーロラ姫は、王子の口づけで呪いが解かれると目覚め、2人は結ばれる。3幕のデジレ王子とオーロラ姫の婚礼の宴では、リラの精と6人の妖精の他、宝石の妖精や青い鳥とフロリナ王女、グリム童話の赤ずきん、シンデレラ等、おとぎ話の登場人物たちが婚礼のお祝いにかけつけ、華やかにフィナーレを飾る。デジレ王子とオーロラ姫のパ・ド・ドゥも見どころである。

注4:『作曲家◎人と作品 チャイコフスキー』p.150

オペラ『イオランタ(ヨランタ)』 Op.69(スコアの表紙)

最後のオペラ。創作中から自信作であり、1892年12月6日に『くるみ割り人形』とともにマリインスキー劇場で初演され、聴衆を魅了した。

南フランスの山中で、ルネ王は娘のイオランタが盲目であることを本人に気づかせないよう育ててきた。しかし、ヴォデモン伯爵と出会い、イオランタは自分の目が見えないことを自覚する。ヴォデモンは処刑されるところであったが、ルネ王はイオランタの目が見えるようになれば罪を許すとした。イオランタはヴォデモンを救いたい一心で治療を決心する。治療を終えて無事に目が見えるようになり、光を讃えて終わる。

参考文献

音楽之友社編『チャイコフスキー(作曲家別名曲解説ライブラリー)』音楽之友社 1993

森田稔『新チャイコフスキー考~没後100年によせて』日本放送出版協会 1993

マイケル・ポラード、五味悦子訳『伝記 世界の作曲家⑦ チャイコフスキー』偕成社 1998

金澤正剛監修『新編 音楽小辞典』音楽之友社 2004

伊藤恵子『作曲家◎人と作品 チャイコフスキー』音楽之友社 2005

池辺晋一郎『チャイコフスキーの音符たち 池辺晋一郎の「新チャイコフスキー考」』音楽之友社 2007

チャイコフスキー 交響曲第6番 《悲愴》 の楽曲解説 – 千葉フィルハーモニー管弦楽団 (chibaphil.jp)

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