はじめてのチャイコフスキー(1)
Wikimedia Commonsより
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー
Pyotr Il’yich Tchaikovsky 1840年5月7日-1893年11月6日(ユリウス暦1840年4月25日-1893年10月25日)※
ロシア、ヴォトキンスク生、サンクトペテルブルク没
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは、ロシアの作曲家である。
2020年に生誕180周年を迎え、生誕を祝うプログラムが世界各地で演奏された。チャイコフスキーの音楽は今なおいたるところで演奏され続けている。
チャイコフスキーは法律学校を出て法務省で役人として働いていたが、ペテルブルク音楽院へ進学し、音楽家へと転身したという経歴の持ち主である。
三大バレエ『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』やオペラ『エフゲニー・オネーギン』、ピアノ協奏曲、ヴァイオリン協奏曲、7曲の交響曲等、多くの大曲を後世へと残した。
※チャイコフスキーが生まれた時代、帝政ロシアはユリウス暦を使用していた。1918年からグレゴリオ暦(現在の西暦)へ改暦となったため、表記の仕方は書物や文献によって多様である。1800年2月18日~1900年2月28日の間は、ユリウス暦の12日後がグレゴリオ暦となる。
1チャイコフスキーの生涯
チャイコフスキーの生家、現在は博物館になっている
出典:Wilipedia
1.1 生い立ち
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーは1840年5月7日、ロシアの鉱山都市ヴォトキンスクに生まれた。父親は鉱山技師であるイリヤー・ペトローヴィチ・チャイコフスキー(1795年-1880年)、母親はアレクサンドラ・アンドレーエヴナ・アッシエールで、長男ニコライが誕生した2年後に二男として誕生した。
イリヤーは1808年に小学校を卒業した後、工場で勤務することとなったが鉱山学校へ入学、22歳の時に優秀な成績で卒業し鉱山技師となった。以降、母校である鉱山学校で教鞭をとりながら、42歳でヴォトキンスクの工場長に就任した。1833年にアレクサンドラと結婚し、長男ニコライ、次男ピョートル、長女アレクサンドラ、三男イッポリート、双子の弟モデストとアナトリーと6人の子どもに恵まれた。
1.2 音楽教育
1844年、家庭教師であるファニー・デュルバッハは、チャイコフスキー家に住み込みでフランス語やドイツ語、歴史、地理、文学等、様々な教科を教えていた。
ファニーはチャイコフスキーの手紙や詩を丁寧に保管しており、その記録には6歳でフランス語とドイツ語を完全に読むことができたなど等、優秀さがうかがえる。
4歳の頃、オーケストリオン※を好んで聴くようになったチャイコフスキーは、モーツァルトやロッシーニ、ベッリーニ、ドニゼッティの作品に触れた。それらを5歳の時には自由に弾けるようになっていたと言われており、両親の意向もあって、マリヤ・マールコヴナ・パリチコヴァに楽譜の読み方とピアノの初歩を習い始めた。
※オーケストリオン…オーケストラが演奏しているように、複数の楽器を同時演奏する楽器のこと。
1.3 法律学校~就職
1850年8月下旬、両親の希望によりチャイコフスキーは法律学校の予科に入学するためペテルブルクに到着した。1852年5月には倍率の高い試験に見事合格し本科へと進級、1859年5月13日に法律学校を卒業した。
学校では友人に恵まれ、酒や煙草、賭博と娯楽も覚えたが、音楽から全く離れてしまったということはなく、学業の傍ら触れる機会は存分にあった。当時、オペラ好きの友人も多く学内では劇場通いが流行し、チャイコフスキーもしばしば足を運んでいた。
1855年にドイツ人のピアニストであるルドルフ・キュンディンゲルにピアノを習い、一時期はルドルフの兄であるアウグストに通奏低音のレッスンも受け、音楽の学びを止めることはなかった。しかし、父イリヤーの「音楽を職業にさせるべきか」という問いに、ルドルフはチャイコフスキーの才能を認めず否定的であった。
卒業試験に合格したチャイコフスキーは、九等官の官位が与えられ法務省に配属された。
1.4 法務省勤務からペテルブルク音楽院へ
法務省で働き始めてから3年目の1861年の夏季休暇に、父親の友人であるピーサレフの秘書兼通訳として、初めてのヨーロッパ旅行へと出かけた。外国旅行が夢であったチャイコフスキーは旅を大いに楽しみ、ドイツのベルリン、ハンブルク、ケルン、ベルギーのアントワープ、ブリュッセル、オーステンデ、さらにロンドン、パリを巡った。しかし、ピーサレフとのトラブルやチャイコフスキーの浪費癖もあり、8月末には1人でペテルブルクへと帰国している。
1861年3月に妹のアレクサンドラへ宛てた手紙には、仮に音楽的な才能があったとしても伸びる見込みはないだろうと、官吏の道を選んだ自分への評価を現実的に受け止めていた。しかし、外国旅行が彼の感性を刺激したのか、1861年の秋、知人と音楽について語り合っていた際に「帝室ロシア音楽協会(RMO)」の存在を知ることとなり、すぐさまRMOのクラスの聴講生となった。RMOでは音楽理論を勉強し自身の才能に希望を持てたこともあり、少しずつ自信が芽生えていった。
1862年9月8日、RMOはロシアで初めての音楽院であるペテルブルク音楽院として新たに創立され、チャイコフスキーは第一期生として入学することとなる。
入学した頃には、すでに仕事を変えるつもりであることを示唆しており、役人ではなく芸術家であると確信するまでは役人の仕事を続けることに決め、しばらくは仕事と学業の両立を続けた。
1.5 ペテルブルク音楽院時代
出典:Wikimedia Commons
仕事と学業の両立をしていたチャイコフスキーであったが、とうとう1863年4月11日に休職届を提出し、学業に専念することを決めるとなった。
チャイコフスキーは勤勉な生徒で、院長であるアントン・ルビンシテインから厳しい指導を受け、ピアノ曲や声楽曲、合唱曲、様々な楽器編成の曲の作編曲をこなした。入学当初からしたときから既に音楽の才能を発揮していたゲルマン・ラロシ(1845–1904)という学友もでき、ピアノで連弾をするなど等、互いに刺激し合いながら良い関係を築き、実りある学生生活を送った。
アントン・ルビンシテイン
出典:Wikimedia Commons
1865年12月29日、公開卒業試験が行われた。卒業作品の課題は、ベートーヴェンの『交響曲第9番』第4楽章に出てくるシラーの詩によるカンタータで、カンタータ『歓喜に寄せて』を作曲した。序曲を入れて6楽章からなる大曲である。しかし、チャイコフスキーは公開試験の日もその後の口頭試験にも姿を現すことはなく、院長は卒業を認めないと激怒したが、最終的には銀メダルの授与と自由芸術家の称号も得て、無事に卒業した。
ゲルマン・ラロシ
出典:Wikimedia Commons
1.6 モスクワへ
チャイコフスキーはペテルブルク音楽院を卒業した後、モスクワへと向かった。アントン・ルビンシテインの弟であるニコライ・ルビンシテインの家へ下宿しRMOのモスクワ支部で音楽理論の教師をすることになっていたためである。環境の変化により憂鬱になることもあり、教師は、はじめは慣れないところもあったが、間もなくして順調になった。
1866年9月1日には、ニコライによりモスクワ音楽院が開校され、チャイコフスキーはそこで音楽理論、和声、作曲を教えることとなった。1878年まで教師を続け、12年間の間に『和声学実践学習の手引き』を自身で執筆したり、音楽に関する書籍を翻訳したりと音楽教育にも力を注ぎ貢献した。
モスクワでは新たな出会いに恵まれ、交流が広がった。ニコライは劇場や社交サロンにチャイコフスキーを連れ出していたし、音楽院でも新たな音楽家との出会いの機会があった。
この時期ロシア五人組、すなわちミリイ・バラキレフ、ツェーザリ・キュイ、モデスト・ムソスグスキー、アレクサンドル・ボロディン、ニコライ・リムスキー=コルサコフとの交流もあった。
教師の仕事のかたわら、オペラや交響曲等の大曲の作曲に着手しており、1868年28歳の時には、『交響曲第1番』が初演されている。
1.7 結婚
チャイコフスキーとアントニーナ夫人
出典:Wikimedia Commons
「同性愛者」の切り口で語られることも多いチャイコフスキーであるが、彼は女性との結婚を考えていた。自身が同性愛者であることは認めていたが、同性愛は幸福の妨げになるとし、世間体を気にしていた。当時のロシアで、同性愛は珍しいことでなかったと言われているが、万人に理解されていたとは言い難い。表立っては公表できず、噂を恐れ生きづらさを感じていたと思われる。また、同性愛の兆しを見せていた弟のモデストに自身が影響を与えていることに気づき、ショックを受けたことも一因していた。
1877年4月5日、モスクワ音楽院の生徒であったアントニーナ・ミリュコーヴァ(二人の写真)から愛の手紙を受け取った。初めは断ったチャイコフスキーであったが、彼女は手紙のやり取りの中でチャイコフスキーに対する愛を伝え、莫大な遺産を持っていることも明かした。愛する人と結婚したいというミリュコーヴァの熱い想いは手紙の中でも燃え盛り、ついに5月20日、チャイコフスキーは彼女を訪問することにした。そして、5月23日の2度目の訪問でチャイコフスキーが求婚し婚約、7月6日に2人は結婚した。
チャイコフスキーは自身や家族の世間体のためにも結婚をしたかった。1877年7月3日にメック夫人へ宛てた手紙の中では、ミリュコーヴァとの出会いに運命的なものを感じているということを打ち明けているが、決して幸せな結婚だとは感じていなかったであろう。
森田稔著『新チャイコフスキー考 没後100年によせて』の中で、ミリュコーヴァがチャイコフスキーの死後「ペテルブルク新聞」に寄せた回想記事の文章を引用する(注1)。2度目の訪問時のチャイコフスキーの言葉は以下のようであった。
「私は一度も女性を愛したことがないし、熱烈な愛情を持つには年をとりすぎていると思うし、そのような愛情は誰に対しても持たないと思う。しかしあなたは私の気に入った最初の女性だ。もしあなたが静かで平穏な愛で満足するのなら、あなたに結婚を申し込みする」
しかし、結婚が作曲活動に支障をきたすという周囲の声もあり、結婚生活は上手くいかず幕を閉じることとなる。7月6日に結婚したもののミリュコーヴァとの生活に耐えきれなくなったチャイコフスキーは、9月24日にペテルブルクへと逃亡した。
注1:森田稔著『新チャイコフスキー考 没後100年によせて』p.190
1.8 メック夫人
ナデージタ・フォン・メック
出典:Wikimedia Commons
チャイコフスキーの音楽活動を支えたひとりの女性がいた。大富豪に嫁ぎ未亡人となったナデージタ・フォン・メックである。メック夫人はチャイコフスキーの音楽を愛しており、編曲を依頼したことから交流が始まった。以後、芸術家チャイコフスキーに対するメック夫人の支援は14年にわたって続き、1877年12月18日から開始された文通は膨大な量となった。
しかし、その支援は1890年9月のメック夫人からの手紙で急な打ち切りとなる。詳細な理由に関しては様々な推測がされているが、大まかには家庭の事情で経済的に支援が困難になりやめることとなった。もともと2人は手紙のやりとりのみで、会わないことを決め接触をできる限り避けていたため、支援がなくなるということは手紙のやりとりもなくなり、関係性が途絶えるということでもあった。その手紙を受けたチャイコフスキーは動揺し、憤慨し、ひどく悲しんだ。
1.9 海外進出
1878年10月に音楽院最後の授業を行い退職してから、フィレンツェやパリ等様々な場所で仕事をしてきたチャイコフスキーの作品は、徐々にヨーロッパへと進出していった。この年は、オペラ『エフゲニー・オネーギン』や『交響曲第4番』『ヴァイオリン協奏曲』等の大曲を完成させており、チャイコフスキーの活躍の場はますます広がった。
指揮者の活動もするようになり、1888年~1889年はヨーロッパ各地を回り演奏旅行をした。また、知人からアメリカでの指揮旅行を勧められ、渡米を考えていた。1891年3月28日に妹アレクサンドラの訃報を聞き、一度渡米を辞めようとしたが、1891年4月26日にニューヨークへ到着し、5月5日にアメリカでの指揮者デビューを果たし成功を収めた。
1.10 晩年
チャイコフスキーの家博物館 クリンにあるチャイコフスキー最後の住居は現在博物館となっている
出典:Wikipedia
米国から帰国した1891年には、大作が次々と作曲された。バレエ『くるみ割り人形』、最後のオペラとなる『イオランタ』『交響曲第6番《悲愴》』である。『くるみ割り人形』と『イオランタ』の作品は1892年12月6日に同時に初演された。交響曲第6番は1893年8月18日にようやく完成し、10月16日、RMOの演奏会でチャイコフスキーが指揮を振り初演となった。
その数日後である10月21日、チャイコフスキーは腹痛と下痢の症状に襲われた。医者を呼んだが、事態は深刻であった。医師は「コレラ」と診断。病状は良くならず意識不明で昏睡状態が続き、25日に亡くなった。当時、突然の出来事により様々な噂が飛び交ったが、20日にオストロフスキーの『熱き心』を観劇後、甥たちとレストランで食事をした際に飲んだ水が原因でコレラを発症したと診断された。チャイコフスキーの死後、死因については、コレラ説や同性愛の暴露を恐れて自殺した説等様々な推察がされているが、真相は不明である。
居間にあるチャイコフスキーのデスク
出典:Wilipedia
続きは、初めてのチャイコフスキー(2)へ
この記事へのコメントはありません。