ジュゼッペ・ヴェルディ|Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 1813-1901
Giuseppe Fortunino Francesco Verdi
1813年10月10日-1901年1月27日
出生地:フランス帝国領、レ・ロンコーレ 没地:イタリア王国、ミラノ
ジュゼッペ・ヴェルディ(正式名:ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ)と言えば、イタリアの「オペラ王」!『椿姫』、『アイーダ』、『リゴレット』、30作近いオペラは傑作揃いです。毎年必ず世界のどこかの劇場でヴェルディのオペラが上演されていることからも、その人気の高さがうかがえます。
ヴェルディの最大の功績は、オペラを人間ドラマにしたことです。ヴェルディにとっては歌も音楽も、全てはドラマを表現するためのもの。そのためには、音楽のルールも社会通念もひっくり返しました。
そして、ヴェルディが描いたのは人間の真実。人間の心の奥底をえぐり出し、その真実をさらけ出す、世界共通のドラマです。クラシック音楽に馴染みがなくても、ヴェルディの作品にはきっと感動を覚えます。
しかし、音楽に乏しい片田舎の寒村に生まれたヴェルディ。一体どのように大作曲家への道を歩んだのでしょうか。
1.ヴェルディの生涯
1.1 生い立ち
ジュゼッペ・ヴェルディは1813年、現在の北イタリア、レ・ロンコーレに生まれました。イタリアはまだ統一されていない小国の集まりで、レ・ロンコーレもヴェルディ出生時はフランス領、間もなくオーストリア領となりました。父カルロ(1785-1867)は宿屋を経営し、母ルイジア(1878-1851)と結婚8年目にジュゼッペが誕生します。妹がいましたが17歳で亡くなりました。
レ・ロンコーレ唯一の学校である聖ミケーレ教会のオルガニスト、バイストロッキはヴェルディ少年に楽譜の読み方やオルガンの弾き方を教えました。ヴェルディ8歳の時、両親は中古のスピネット(小型のチェンバロ)を買い与えます。ヴェルディはこのスピネットを生涯大切にしました。ヴェルディ少年の演奏に感服した調律師の賛辞がこのスピネットに貼り付けられ、養老院「音楽家のための憩いの家」※に現在も展示されています。
※憩いの家…ヴェルディが建設した音楽家のための養老院。詳しくは「2.3 音楽家のための憩いの家」を参照。
1823年、父カルロは交友のあったパルマ公国首都ブッセートの名士、アントーニオ・バレッツィ(1787–1867)の助言に従い、10歳のヴェルディをブッセートに下宿させ音楽の基礎を学ばせます。1832年、18歳のヴェルディはミラノ音楽院の入学試験を受けますが、規定年齢(14歳)を超えていたため入学を却下され、ミラノで音楽院の教師から個人レッスンを受けました。
1836年3月5日、23歳のヴェルディはブッセートの音楽監督に就任。4月16日にバレッツィの長女マルゲリータと結婚しました。
1.2 処女作初演と喜劇の失敗
19世紀のスカラ座
1836年9月、オペラ処女作『オベルト(ロチェステル)』が完成します。
1837年3月26日に長女ヴィルジーニア、翌1838年7月11日に長男イチリオが誕生しましたが、直後の8月12日に長女が他界、長男イチリオも1839年に生後わずか1年あまりで病により亡くなってしまいます。
ヴェルディは9月7日からミラノに出かけ、スカラ座支配人のバルトロメオ・メレッリから『オベルト』上演許可を取り付けブッセートに帰国しました。また、初出版作品の歌曲集『6つのロマンス』をミラノ、コンティ社から出版しています。
ヴェルディはブッセートの音楽監督を辞職し、1839年2月6日に一家でミラノへ移転。プリマドンナ、ジュゼッピーナ・ストレッポーニ(1815-1897)が『オベルト』を推薦したこともあり、スカラ座側は上演に積極的でした。長男の死に直面した1カ月後の11月17日、オペラ『オベルト』スカラ座初演。初演は好評で同シーズンに14回の上演となり、メレッリは即座にヴェルディと契約を結びました。
ヴェルディは次の題材に喜劇(ブッファ)を選びます。その矢先の1840年6月18日、今度は妻マルゲリータ他界。家族を全て失い、バレッツィに連れられてブッセートに引きこもったヴェルディですが、8月中旬にはミラノに戻ってオペラ・ブッファ『1日だけの王様』を書き上げます。しかし、9月5日にスカラ座で初演したこの喜劇は大失敗。自信をなくしメレッリに契約破棄を願い出ましたが、メレッリにとって初演の失敗は日常茶飯事。年末にヴェルディに会った彼は、1つの台本を手渡します。
気まぐれに開いた台本のページの一文が、ヴェルディの心をとらえました。
1.3「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」
『ナブッコ』1842年初演当時の台本
『ナブッコ』と呼ばれたそのオペラは、旧約聖書を題材としたテミストークレ・ソレーラ(1815-1878)の台本で、1841年10月に完成しました。ジュゼッピーナがヒロイン役を引き受け、1842年3月9日スカラ座初演。合唱曲「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」は、聴衆が熱狂し警察の制止も聞かずアンコール演奏されたとか。この合唱曲は今日、第二のイタリア国歌の地位を築いています。『ナブッコ』は11月までに57公演というスカラ座史上初の記録を打ち立てました。
エマヌエーレ・ムツィオ|フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ
その後ヴェルディは、1844年4月から弟子入りしたエマヌエーレ・ムツィオ(1821–1890)の手を借りながら、1年1作という驚異的ペースでオペラを作曲します。後に、奴隷労働を意味する「ガレー船の時代」と回想した程です。1843年2月11日スカラ座『第一次十字軍のロンバルディア人』、片腕となる台本作家フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ(1810-1876)との協働で1844年3月9日ヴェネツィア・フェニーチェ劇場『エルナー二』、同年11月3日ローマ・アルジェンティーナ劇場『2人のフォスカリ』、1845年2月15日スカラ座でソレーラの台本による『ジョバンナ・ダルコ』、同年8月12日ナポリ・サンカルロ劇場『アルツィーラ』、1846年3月17日ヴェネツィア・フェニーチェ劇場『アッティラ』、各初演。
一方で1846年、「リソルジメント」と言われるイタリア統一運動に動きがありました。反オーストリア的で革命に理解を示すピウス9世(1792-1878)が第255代ローマ教皇に選出され、時代はイタリア解放へと動き出していきます。
過労のための療養期間を経て、ヴェルディはイギリスの文豪シェイクスピアの戯曲を元にした『マクベス』の作曲に取り掛かりました。1847年3月14日、フィレンツェ・ペルゴラ劇場での初演は、それほど評価されません。しかし『マクベス』はイタリア・オペラの新境地を開いた作品でした。ヴェルディは、マクベス夫人演じるソプラノに醜く悪魔的な声を要求し、「作曲家より詩人に従ってほしい」と指示しました。声の美しさを追求するイタリア・オペラの伝統を否定し、「歌」より「劇」に従うことを求めたのです。『マクベス』は、リアルな人間ドラマに重点を置く「ヴェリズモ・オペラ」※への道筋を開きました。
オペラも同様に庶民の日常を描く「ヴェリズモ・オペラ」という新しいオペラの傾向が生まれ、声楽技巧ではなく直接的な感情表現に重きを置き、重厚なオーケストレーションであることが特徴とされます。
1.4 生涯の伴侶 ジュゼッピーナ・ストレッポーニと二月革命
ジュゼッピーナ・ストレッポーニ(1840年代中頃)
1847年7月22日ヴィクトリア女王臨席の下、ロンドン・クイーンズ劇場で『群盗』初演。7月27日にパリに到着し、オペラ座との契約を取り付けます。1847年11月26日、パリ・オペラ座で『イェルサレム』(『第一次十字軍のロンバルディア人』パリ版)初演。
パリにはジュゼッピーナ・ストレッポーニが住んでいました。イタリア一のプリマドンナだった彼女は、2人の私生児を産んだ上、過酷な公演で急速に声を失いました。1846年に引退し、パリで声楽教師をしていたのです。ヴェルディは彼女と同棲を始め、以後ジュゼッピーナは生涯の伴侶となります。
1848年2月24日、パリで二月革命勃発。この市民革命はヨーロッパ中に飛び火し、3月にはミラノでオーストリア軍撤退、臨時政府が樹立されました。
ヴェルディは同年4月5日に帰国し、サンタ・アガタに農園を購入。この農園を両親に任せ、5月31日にはパリに戻ります。その後、イタリアの解放運動は進展せず、8月5日にミラノの臨時政府は解散させられオーストリアに再併合されます。1849年8月にパリを離れたヴェルディは、ジュゼッピーナとともにブッセートに帰郷しました。
この時期には、1848年10月25日トリエステ・グランデ劇場で『海賊(イル・コルサーロ)』、1849年1月27日ローマ・アルジェンティーナ劇場で『レニャーノの戦い』、同年12月8日ナポリ、サン・カルロ劇場で『ルイザ・ミラー』、1850年11月16日トリエステ・グランデ劇場で『スティッフェーリオ』を初演しています。
1.5 人間の真実を描く
オペラ『リゴレット』の1851年初演ポスター
傑作オペラ『リゴレット』の原作は、フランスの詩人ヴィクトル・ユーゴーの戯曲『王は楽しむ』。スキャンダラスな内容で、パリでは上演禁止になっていました。ヴェネツィアの検閲局は1850年12月、『リゴレット』の台本を却下。台本作家ピアーヴェの尽力により検閲の許可を得、1851年3月11日ヴェネツィア・フェニーチェ劇場で初演します。
主人公リゴレットは放蕩者の公爵の道化で、背中にこぶのある醜い男ですが娘を愛情深く育てていました。衝撃的な父娘の別れと唐突な幕切れ。客席は一瞬の沈黙の後、怒涛の歓声に沸きました。即座にフェニーチェ劇場で21回の再演決定。4年後にパリで『リゴレット』を見た原作者のユゴーは、ヴェルディの才能を讃えました。
1851年6月30日、母ルイジアが64歳で他界。サンタ・アガタから別の農場に移らせた直後のことでした。ヴェルディは、ジプシーの老女が主人公の『イル・トロヴァトーレ』に打ち込みます。しかし、台本を担当していたサルヴァトーレ・カンマラーノも1852年7月急死。『イル・トロヴァトーレ』は1853年1月19日、ローマ・アポロ劇場で初演されました。「歌」の魅力を最大限に引き出した音楽で大成功。ヨーロッパのみならず、ニューヨークや南米諸都市でも上演されました。
オペラ『椿姫』ヴォーカルスコア、1855年頃出版
1852年2月、ヴェルディはパリでアレクサンドル・デュマの戯曲『椿の花を持つ貴婦人(La Dame aux Camélias)』を見ていました。後世、不動の人気作となるオペラ『椿姫』の原作です。
主人公のヴィオレッタは高級娼婦、貴族の身分を金で買った成り上がりのブルジョアに付き物の存在。ピアーヴェは血相を変えます。時代設定を変更し、タイトルはカトリックの倫理観を打ち出した『ラ・トラヴィアータ(道を踏み外した女)』として検閲をクリアしました。
1853年3月6日ヴェネツィア・フェニーチェ劇場での初演は大失敗を喫し、たった2回で打ち切られます。主役のプリマドンナは肺病で死ぬ役とは思えぬ健康的な見た目で、舞台全体の準備不足も原因でした。初演の失敗を反省して1854年5月6日、ヴェネツィア、サン・ベネデット劇場で再演した『椿姫』は大喝采で受け入れられました。
『リゴレット』の道化、『イル・トロヴァトーレ』のジプシー、『椿姫』の娼婦、これらは社会から疎外された人々です。ヴェルディはあらゆる人々に視線を向け、その心の真実を描き出す作曲家でした。
1.6 イタリア統一と国会議員
『シチリアの夕べの祈り』フランチェスコ・アイエツ画1846年
パリ万国博覧会(1855年5月15日~11月15日)のために1855年6月13日、グランド・オペラ『シチリア島の夕べの祈り』をパリ・オペラ座で初演。パリに2年留まって書き上げ、プリマドンナの失跡騒ぎなど苦労の絶えない仕事でしたが初演は成功。40回の上演記録を打ち立てました。
1857年3月12日ヴェネツィア・フェニーチェ劇場『シモン・ボッカネグラ』、同年8月16日リミニ、ヌオーヴォ・コムナーレ劇場『アロルド』(『スティッフェーリオ』の改作)初演、と続きます。
1856年9月、ストックホルムの国王暗殺事件(1792年)を扱った古い台本「グスターヴォ3世」を発見したヴェルディは、オペラ化を構想します。
折悪しく1857年1月14日に起きたイタリア人によるフランス皇帝ナポレオン3世暗殺未遂を警戒し、ナポリの検閲局は敏感に反応。ナポリでの上演は不可能に。ヴェルディは物語の舞台をアメリカ、ボストンに書き変え、『仮面舞踏会』というタイトルをつけて、1859年2月17日ローマ・アポロ劇場で初演します。同劇場で連続3シーズン上演されたという事実が成功を物語ります。
「ヴェルディ万歳」1859年のイラスト
1859年はイタリア統一運動全盛期でした。統一を掲げるサルデーニャ国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世(1820-1878)の「イタリア国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ(Vittorio Emanuele, Re D’Italia)」の頭文字が「VERDI」と一致することで、ヴェルディは愛国のシンボルに担ぎ上げられます。
この年の8月29日、ヴェルディとジュゼッピーナは現フランス南東部サヴォイア(サヴォワ)の小さな教会で正式に結婚式を挙げました。サンタ・アガタの農園で過ごしていたヴェルディをよそに、イタリアは大激変を遂げます。
エマヌエーレ2世に指名されたカミッロ・カヴール(1810-1861)は各小国の合併を進め、とうとう1861年、統一国家イタリア王国が誕生したのです。初代首相となったカヴールはヴェルディに国会議員への立候補を要請し、1861年2月に当選したヴェルディは1865年まで国会議員を続けました。
1.7 ライバル、ワーグナーの存在
オペラ『運命の力』ポスター
1861年1月にロシア・ペテルブルク帝室劇場(マリインスキー劇場)の打診を受け、『運命の力』の制作を決定。11月24日にロシアに出発しましたが、主役ソプラノの病欠により翌シーズンに持ち越され、1862年11月10日初演。4回目に臨席したロシア皇帝からは勲章が授与されました。『運命の力』はロシアの作曲家に大きな影響を与えました。
そのころ、同年齢の作曲家リヒャルト・ワーグナー(1813-1883)が影響力を高めていました。ワーグナーは1861年、パリで『タンホイザー』を初演しています。
1867年3月11日、パリ万国博覧会(1867年4月1日~10月31日)のためのグランド・オペラ『ドン・カルロ』をパリ・オペラ座で初演。ナポレオン3世夫妻を迎え初演しましたが、熱心なカトリック信者のウジェニー皇后が離席し失敗に終わります。ジョルジュ・ビゼー(1838-1875)らにはワーグナーの影響を言い立てられました。度重なる失敗に懲りたヴェルディは以後、オペラ座での仕事を引き受けませんでした。
この公演の直前、1867年1月14日に父カルロが82歳で他界しました。ヴェルディは、カルロが面倒を見ていた7歳になる親戚の娘を引き取り、後にマリアと改名して正式な養女とします。同年7月に義父のバレッツィも他界。年末にはピアーヴェが倒れ、8年間寝たきりになります。一方ブッセートでは、ヴェルディの名を冠した劇場が1868年8月15日に開場しました。
テレーザ・シュトルツ
1869年2月、スカラ座で改訂版『運命の力』初演。主役はボヘミア出身のソプラノ、テレーザ・シュトルツ(1834–1902)でした。ヴェルディとシュトルツは急速に仲を深め、ジュゼッピーナを苦しめます。シュトルツの婚約者は指揮者アンジェロ・マリアーニでした。マリアーニはシュトルツと別れるとワーグナー派に転向。1871年11月1日、ボローニャで『ローエングリン』を指揮し、イタリアにワーグナー作品を導入しました。ヴェルディは『ローエングリン』のスコアを抱えてボローニャ公演を観劇。スコアの余白に、物語展開の退屈さを指摘する一方、オーケストレーションのすばらしさを書き込んでいます。
1.8 集大成と老い
オペラ『アイーダ』のポスター(1908年、オハイオ)
1870年6月、スエズ運河開通(1869年11月)記念事業として建設されたエジプト、カイロのオペラハウスのためのオペラを、パリ・オペラ座から依頼され取り掛かります。ヴェルディの集大成となるオペラ『アイーダ』です。
しかし、直後の1870年7月に普仏戦争(フランスとドイツ・プロイセン)勃発。パリで制作した舞台装置が運び出せなくなり、やむを得ず初演を延期。1871年12月24日、『アイーダ』のカイロ初演は完璧な成功を収めます。1872年2月8日、シュトルツを主役にスカラ座での上演も大成功。3月末までに24回上演しました。
『レクイエム』1874年スカラ座上演を描いた出版物、(指揮はヴェルディ、ソリスト右端はシュトルツ)
1873年5月22日、イタリアの文学者アレッサンドロ・マンゾーニ死去。この作家を敬愛していたヴェルディは、追悼のためのミサ曲『レクイエム』を作曲します。「三大レクイエム」と称されることになる大作です。
一周忌にあたる1874年5月22日ミラノ、サン・マルコ教会で初演。聴衆はヴェルディの音楽に熱狂し、3日後にはスカラ座で再演されました。1875年に『レクイエム』のヨーロッパツアーも開催し、パリとウィーンでは勲章が授与されました。ニューヨークでは1874年11月17日、弟子のムツィオが指揮し初演しています。
60歳を超えたヴェルディは、しばらく筆が止まってしまいます。1874年に上院議員に選出されていましたが、議会には一度も出席していません。
1876年3月5日、台本作家ピアーヴェ他界。1878年にはシュトルツが引退し、サンタ・アガタの近くに住みました。ジュゼッピーナとシュトルツは配慮を示し合っていましたが、スキャンダルは広まります。そのころ養女のマリアが結婚してサンタ・アガタに同居、5人の子どもも生まれました。
楽譜出版社リコルディの紹介で1879年11月、台本作家アリゴ・ボーイト(1842-1918)は、シェイクスピアの戯曲を基にした台本『オテロ』をヴェルディに手渡しました。ヴェルディは台本が気に入りましたが、高齢を理由になかなか筆が進みません。1883年2月にはライバル、ワーグナーが他界。
1886年11月1日、ようやく『オテロ』完成。1887年2月5日のスカラ座初演は大成功を収めました。
1.9 最後は喜劇
オペラ『ファルスタッフ』の場面、ヨハン・ハインリヒ・フュースリー画1792年
1888年11月に開業した病院の事業や農園経営など、音楽と関係ない仕事をして過ごしていたヴェルディ。1889年、ボーイトからシェイクスピアの戯曲『ウィンザーの陽気な女房たち』を下敷きにした、喜劇『ファルスタッフ』が届きます。喜劇と言えば、大失敗した2作目のオペラ『1日だけの王様』以来手を付けていません。しかし、ボーイトの台本に感嘆したヴェルディは決断しました。
1893年2月、79歳のヴェルディはスカラ座で『ファルスタッフ』初演。観客にはジャコモ・プッチーニやピエトロ・マスカーニの姿も。ヴェルディはかつて敗れた喜劇で、50年後に勝利を勝ち取りました。
『ファルスタッフ』はヴェルディ最後のオペラとなりました。それまでのヴェルディのオペラとは異なる、愛情に満ちた微笑みの作品です。喜劇にはふさわしくない厳格な形式フーガで締めくくり、全員が合唱します。「この世はすべて冗談。最後に笑う者が本当に笑う者だ」
その後のヴェルディは、ボーイトがいくら新作を見せても首を縦に振りません。1897年11月14日、ジュゼッピーナ他界。1899年12月、ミラノ郊外の養老院「音楽家のための憩いの家」が完成します。ヴェルディは遺言で、養老院の礼拝堂に妻と一緒に葬ってほしいと記しました。
Viva-Verdi, CC BY-SA 4.0
1901年1月21日、滞在先のミラノで倒れたヴェルディは昏睡状態になります。1月27日午前2時50分、養女マリア、シュトルツ、ボーイト、リコルディ夫妻が見守る中、ヴェルディは87歳でこの世を去りました。同日のローマ上院議会はこう述べます、「彼こそは、まさに君主であった」。
2月26日、遺言通り「音楽家のための憩いの家」の礼拝堂に夫妻の遺体が移されます。沿道には20万人の群衆が殺到し、スカラ座のオーケストラと800人の大合唱が「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」を演奏しました。
礼拝堂のヴェルディの墓にはマルゲリータとジュゼッピーナの墓が寄り添い、シュトルツの墓は入り口のバルコニーの下にひっそりと置かれています。
画像|出典:Wikimedia Commons
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