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ジュゼッペ・ヴェルディ|Giuseppe Fortunino Francesco Verdi 1813-1901

2 音楽史における位置と特徴

2.1 ヴェリズモへの扉

オペラ『マクベス』初演挿絵、フレデリック・リックス画1865年

ヴェルディのオペラは180年近くを経た現在でも、自然と涙してしまうようなものばかりです。必ずしもクラシック音楽に馴染みがない人でも、ヴェルディのオペラに感動することができます。

ヴェルディが駆け出しの頃のイタリア・オペラは、ジョアキーノ・ロッシーニ(1792-1868)やヴィンチェンツォ・ベッリーニ(1801-1835)を代表とする、「ベルカント・オペラ」の全盛期でした。「ベルカント」とはイタリア語で「美しい声」のこと。美声と超絶技巧で聴衆の感動を得る、音楽主導のオペラが多かったのです。
しかしヴェルディは、登場人物の性格や感情を忠実に表現し、オペラのドラマを重視しました。そのため、役の性格を表すためには美声を要求しません。オペラの美学がベルカントであった当時、これは非常に前衛的な考え方でした。

ヴェルディの試みは19世紀末以降、感情表現を重視したリアルな人間劇の「ヴェリズモ・オペラ」へとつながっていきます。

2.2 著作権システムの導入

ヴェルディの楽譜を出版したリコルディ社、1844年頃

1847年夏、パリ・オペラ座と初契約を結んだヴェルディは、フランスの著作権システムを経験します。フランスでは18世紀末、作曲家の許可なしにオペラを上演できない法律ができていました。上演のたびに作曲家に上演料が支払われたのです。ヴェルディはこのシステムをイタリアで活用します。

さらに楽譜出版社を味方に付けました。劇場、歌手の手配から興行まで、劇場主や興行主ではなく出版社に依頼したのです。そして、出版社が販売、レンタルする自作品の出版楽譜の売上からも利益が入るようにしました。

ヴェルディは時代の流れによる音楽産業の変化を捉え、作曲家の収入を確保し、その地位の向上に務めました。

2.3 音楽家のための憩いの家

Casa di Riposo per Musicisti a Milano

ヴェルディが建設した「音楽家のための憩いの家」
No machine-readable author provided. Folini assumed (based on copyright claims)., CC BY-SA 3.0

実業家でもあったヴェルディは、最晩年の1899年、自身の資産によって養老院「音楽家のための憩いの家」を建てました。入居条件は、現役を引退した65歳以上の音楽家で、生活困窮者であることでした。

台本作家ピアーヴェを始め、才能ある音楽関係者の虚しい最後を見てきたヴェルディは、音楽家が尊厳を持って晩年を生きられる場所を考えていました。ヴェルディは憩いの家を、「最愛の作品」と自負しています。

憩いの家は現在も入居者を迎え入れています。ここには、少年時代のスピネットや作曲に使用したエラールピアノといったヴェルディの遺品を提示するミニ博物館があり、中庭に立つ礼拝堂にはヴェルディと3人の女性の墓があります。


画像|出典:Wikimedia Commons

神保 智 じんぼ ちえ 桐朋学園大学音楽学部カレッジ・ディプロマ・コース声楽科在学中。子どものころから合唱団で歌っていた歌好き。現在は音楽大学で大好きなオペラやドイツリートを勉強中。

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