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ローベルト・アレクサンダー・シューマン|Robert Alexander Schumann

ローベルト・アレクサンダー・シューマン
Robert Alexander Schumann

1810年6月8日-1856年7月29日
出生地:ザクセン、ツヴィッカウ 没地:ボン郊外、エンデニヒ

ローベルト・アレクサンダー・シューマンはドイツロマン派の作曲家、音楽評論家である。
シューマンが生きた時代には歴史に名を残した音楽家が多く存在し、シューマンの妻であり、ピアニストでもあるクラーラ・ヴィーク=シューマン(1819-1896)や、フェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847)、フレデリック・ショパン(1810-1849)、フランツ・リスト(1811-1886)、ヨハネス・ブラームス(1833-1897)等、音楽家達はそれぞれに交流を持ち、シューマンも例外ではなかった。この関わりは、シューマンの人生を紐解く上で非常に重要な鍵となる。

シューマンはライプツィヒ大学で法律を学びながら、ピアニストを志していた。ところが、自身で開発した指を鍛える器具で無理をしたために、指を上手く使うことができなくなってしまう(指の故障の原因については諸説あり)。様々な治療法を試みたが、ピアニストとして活動できるほどの回復は見込めず、夢を断念せざるを得なくなった。
幸か不幸か、それを起点に作曲家への道を歩むこととなり、ドイツロマン派の作曲家として多くの作品を残し、今なお人々の心に残る音楽として世界各地で演奏され続けている。また、音楽評論家でもあった彼は、ショパンやブラームス等の作品を批評することで若き音楽家の発掘にも貢献した。

シューマンが作曲した作品の変遷を辿ると、初期はピアノ作品が多く、1840年は「歌の年」、1841年は「交響曲の年」、1842年は「室内楽の年」としばしば称されることがあるように、大まかにまとめることができる。
主な作品として『子供の情景』Op.15、『クライスレリアーナ』Op.16、『ミルテの花』Op.25、『女の愛と生涯』Op.42、『詩人の恋』Op.48、『ピアノ協奏曲イ短調』Op.54、交響曲第三番ホ長調『ライン』Op.97、などが挙げられる。

1 シューマンの生涯

1.1生い立ち

シューマンは1810年6月8日、ザクセンのツヴィッカウにて誕生した。ツヴィッカウは自然の美しい鉱山町であり、主要な2つの教会があったため、教会音楽を中心に学生達が度々演奏する等、音楽が身近にある町であった。
父は書籍出版業を営み、また作家でもあるフリードリヒ・アウグスト・ゴットロープ・シューマン、母はヨハンナ・クリスティアーネ。子供は5人で、長女エミーリエ、長男エドゥアルト、次男カール、三男ユリウスと続いて、シューマンは末子であった。

1.2音楽教育

初めにシューマンがピアノを教わった人物は、シューマン家に下宿していたアウグスト・フォーレルトという6歳年上の学生であったと言われている。その後、教会のオルガニストであるヨハン・ゴットフリート・クンチュにピアノのレッスンを受け始め、独学で作曲や即興演奏をするようになった。
また、学校教育もしっかりと受けることができ、6歳で私立小学校へ入学し、10歳で9年制の学校であるギムナジウムへ入学。ここでは、楽器ができる友人を集めたコンサートを開いたり、合唱団を発足して合唱付きのオーケストラ作品を書いたり、音楽に対し積極的に活動した。

父アウグストはシューマンの教育に非常に熱心であった。ウィーンからピアノを取り寄せることもあったし、ピアノ曲『舞踏への勧誘』や歌劇『魔弾の射手』等の作品を書いたマリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)にシューマンを弟子にしてくれるように手紙を書いたこともあった。
ウェーバーは結核のため39歳という若さで亡くなり、演奏活動や療養のためにタイミングが合わず弟子入りすることは叶わなかったが、シューマンは家族の理解と協力があり、非常に恵まれた環境の下で教育を受けたと言えるであろう。

1.3フリードリヒ・ヴィーク師との出会い

フリードリヒ・ヴィーク(1785-1873)はシューマンのピアノの師であり、後に結婚するクラーラの父親である。
シューマンは18歳でギムナジウムを卒業すると、ライプツィヒ大学の法科へ入学した。その年にシューマンはヴィークにピアノを習い始めている。ただ、ヴィークからシューマンの母親へ宛てた手紙の中で書かれているように、シューマンはヴィークの教えに対し反抗的になることもあり、しばしば衝突していたようである。あれこれと口実を作りレッスンに来ない日が続くこともあった。

そもそも何故シューマンはライプツィヒ大学の法科へ入学したのであろうか。
一つは音楽で生計を立てることの難しさを感じ、シューマンの将来を心配していた母の希望であった。しかし、法律よりも音楽の道へ進みたいという彼の想いは、自然と法律から遠ざかることとなる。シューマンは初めに母へ手紙を書き、ピアニストを目指していることを打ち明けた後で、ヴィークが自身の将来をどのように考えているかについて聞くよう依頼した。

母はその手紙を受け取ると、我が子の将来を危惧している母親の気持ちを切々と綴った手紙をヴィークへ送った。その手紙に対し、ヴィークは母親の気持ちに寄り添いながらもシューマンの才能を認め、優れたピアニストになるであろうと見解を述べた。ヴィークは自分の元でしっかりと研鑽を積み、ピアノだけでなく、作曲課題や諸理論の勉強にも真摯に取り組むことができるのであれば引き受けることとし、シューマンは1830年20歳の時、ピアニストになるべくヴィーク家に住み込みで音楽の勉強をすることとなった。

しかし、2年前と変わらずお互いの考え方に相違があり譲歩できなかったためか、順調ではなかったようである。作曲のレッスンではヴィークが勧めた教師を拒否し、自分の指針に従って他の教師に師事している。
1831年には、ヴィークがクラーラを連れて演奏旅行へ出かけた際、シューマンは自分の指を鍛えるために器具を開発した。一概にそれが原因で指が使えなくなってしまったとは言えないが、1832年11月6日のシューマンの手紙には、手の具合については完全に諦めたということが書かれている。ピアニストになることを諦めたシューマンは、神学を勉強したりチェロへ転向したりと進路を模索し、最終的には作曲に情熱を捧げていくこととなる。

1.4音楽評論活動

1831年、シューマンがショパンの曲を批評した文章が誌面に掲載された。「帽子をとり給え、諸君、天才だ!」は有名な文である。当時、ドイツでは無名であったショパンを世に知らしめたのもシューマンのこの批評によってであった。
批評の中で、彼は「フロレスタン」と「オイゼビウス」という性格が対照的な架空の人物を用いて文学的に文章を展開している。その他に「ラロ先生」という二人の意見を中立な視点から諫める中間的な役割を持つ人物等、様々なキャラクターが登場する。1834年に『新音楽時報』※が創刊されてから執筆活動は約10年間続き、現代においても当時の音楽業界を知る非常に貴重な資料となっている。

新音楽時報(Die Neue Zeitschrift fur Musik)
1834年4月3日、ライプツィヒでシューマンが創刊し現在まで刊行の続くドイツで最も権威ある音楽雑誌。多数の評論文を発表し、多くの才能を世に紹介した。

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