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ローベルト・アレクサンダー・シューマン|Robert Alexander Schumann

1.5クラーラ・ヴィーク

シューマンの生涯を語る上で決して切り離せない人物は、クラーラ・ヴィーク=シューマンである。クラーラは父ヴィークにより幼少期から手厚い教育を施され、女流ピアニストとして活躍した女性であり、シューマンとの熱い恋愛模様はしばしば話題に取り上げられる。

シューマンとクラーラとの出会いは、シューマンがヴィークにピアノを習い始めた時期であり、シューマンが18歳、クラーラが9歳の頃であった。最初こそ2人は良いお友達であった。ヴィーク家にはクラーラの他に3人の子どもがいたため、シューマンはおとぎ話を聞かせる等ヴィーク家の子ども達としばしば遊んでいたようである。

クラーラは小さい頃からヴィークに連れられて演奏旅行へ行くことがあったため、会えない間は手紙を送り合った。シューマンとクラーラの手紙はとても多く、時に次のような内容のものもあった。シューマンが明日の11時にショパンのヴァリエーションからアダージョを弾くので、クラーラも同じことをするようにと書いている。そうすることで2人は精神世界で繋がり、会えることができると考えた。この手紙にはシューマンのロマンチシズムが色濃く表出しているように思われるが、このような手紙のやり取りを積み重ねていくことによって互いに恋心を抱くようになり、徐々に親交を深めていったのではなかろうか。

1.6婚約そして結婚

1837年8月14日にシューマンとクラーラは婚約をした。その約1か月後の9月13日にはクラーラとの結婚の許しを請う手紙がシューマンからヴィークへ送られた。しかし、クラーラとの結婚は困難を極めた。シューマンはヴィークと直接対面し話し合いをしているが、父ヴィークは断固として結婚を認めることはなかった。9月18日付でシューマンからクラーラへ送られた手紙を一部抜粋する。

「(前略)私はお父上をいつでも気高い、男らしい人として尊敬して参りました。私は、彼の拒絶の立派な深い理由を探してみましたが無駄でした。彼は、あなたが芸術家として、早くからある人と婚約することによって損失を受けるとか、何といってもあなたがまだ若すぎるとかいっておどしました。しかしこれらは全然理由になりません。(後略)」

若林健吉著『シューマン 愛と苦悩の生涯』p.160

ヴィークからすれば、娘としてもピアニストとしても大事に育て上げてきたクラーラを案じての反対だったであろう。この当時すでに女流ピアニストとして名声を得ていたクラーラにとって、結婚は仕事と家庭の両立を意味しており、今まで通りにピアニストを続けられる保証はなかった。ヴィークがクラーラのキャリアについて心配することは至極当然であり、苦労をさせたくないという親の気持ちと考えられる。

当時、結婚には両親の許可が必要であったため対立は長きに渡り訴訟にまで発展した。1839年7月15日最初の訴訟から幾度も裁判を重ね、1840年8月1日に勝訴の判決が下り、ヴィークも控訴することなく、婚約から3年という月日を経て同年9月12日に結婚式が挙げられた。

1.7歌の年、交響曲の年、室内楽の年

シューマンがクラーラと結婚した1840年は、しばしば「歌の年」と言われる。シューマンの創作活動が花開いた年であり、歌曲を作曲することは彼の大きな喜びであった。この年に作曲された歌曲は100曲以上に及び、クラーラへの想いが作曲活動に反映されていると言っても過言ではないであろう。『リーダークライス』Op.24を作曲した際も、シューマンはクラーラのことを想って書き、クラーラがいなかったらこのような音楽は書けなかったと手紙に記している。

結婚式の前日にシューマンからクラーラへ贈られた『ミルテの花』Op.25、男性に恋をして結婚し出産、夫の死と人生を歩んでいった、非常に献身的で慎ましやかな女性の生涯を題材にしたシャミッソーの詩である『女の愛と生涯』Op.42、その他にも『リーダークライス』Op.39、『詩人の恋』Op.48など多くの歌曲が生み出された。

1841年は交響曲を、1842年はピアノの重奏曲や弦楽四重奏曲など室内楽の音楽を多く作曲した。

1.8自殺未遂

1854年1月、クラーラがハノーヴァーの定期演奏会に出演することとなり、演奏旅行を無事終えた後2月10日に、シューマンは聴覚異常の症状を発症した。騒音がこの世のものではない楽器で奏でられた音楽に聞こえる、音楽和音がずっと鳴り響くなど、夜もろくに眠れない様子であったことがクラーラの日記から読みとれる。時々めまいの症状も訴え、死期が近いことをクラーラへ伝えると、お金や作品などの身辺整理までしていたようである。また、精神のコントロールができなくなっていると感じ取っていたシューマンは自ら精神病院へ行くことも希望していた。

このようなこともありクラーラはシューマンを注意深く見守っていた。2月27日、『創作主題による変奏曲』を浄書した後、シューマンは寝室へ入った。しかし、クラーラが目を離し、気付いた時にはすでに彼は寝室にはおらず、外へ駆け出していた。そして、彼は天候の悪い中、橋からライン河へと身を投げたのである。幸いにも近くにいた人々に助けられ一命を取り留めたが、3月4日の朝、彼は精神病院があるエンデニヒへと旅立った。

1.9晩年

1854年3月4日からシューマンはリヒャルト博士がいる私立病院で晩年を過ごすこととなった。クラーラと面会することはなく、再会したのはシューマンが危篤状態になった死後2日前であった。シューマンの精神状態の安定のためもあったであろうが、クラーラはこの2年間の間に男の子を出産しているし、7人の子どもを育てる資金を得るために多くの演奏旅行へ出掛けていることから、面会は難しかったと思われる。その間、シューマンの様子はクラーラへ詳しく伝えられていた。

1856年7月27日、シューマンが危篤状態と聞き、クラーラは1時間だけ面会を許された。その時、シューマンは体に力が入らない状態であり、会話もままならなかった。翌日クラーラは窓の外からではあったがシューマンを見守り、その翌日29日午後4時、シューマンは眠りの中穏やかに逝去した。

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