小川洋子『ホテル・アイリス』×ショパン『ピアノ協奏曲第1番』~小説を彩るクラシック#24

秘密の逢瀬と少年の死

二週間後、マリは町で偶然男を発見し、好奇心からあとを追いかけ、会話をしました。
そして老紳士がロシア語の翻訳家をしていること、ここから遊覧船に乗って渡った場所にあるF島に一人で住んでいることを知ります。

ある日、ホテル・アイリスに老紳士からマリに宛てた手紙が届きます。
「午後二時頃、中央広場の花時計の前で待っています」
マリは母親に嘘をついて、老紳士に会いに行きました。

この日からマリと老紳士の秘密の逢瀬が始まりました。
母親に嘘をつき、遊覧船に乗ってF島の老紳士宅に行きます。そこで、老紳士はマリを裸にし、命令をします。
グロテスクといえるシーンも描かれるのですが、二人は密室で幸福感に満たされます。

この小説では「孤独」こそが真のテーマなのではないかという気がします。
マリは美しく健康な身体を持っていますが、ホテル・アイリスに繋がれてしまっていて自由(心)がない。
老紳士は人のいない離島に暮らし、身体はどうしようもなく老いている。

二人ともこの世界で、欠落したものを抱えながら生を実感することなく生きています。

マリが老紳士に「死体は見たことはある?」と訊ねるシーンがあります。

「四歳ぐらいの、とてもかわいい男の子だったんです。色白で、天然パーマの。甲板のベンチに母親と坐ってお利口にしてたのに、何かの拍子に、そう、カモメが魚をつかまえるのを見ようとしたのか、水上スキーがおもしろかったのか、するするっと船尾に駆けていって、手すりから身を乗り出して、あっという間に海へ落ちました。母親が目を離したわけじゃありません。そこにいる人みんなの視線の中に、彼はいました。なのにまるで、海の魔物にさらわれるみたいに、美しい弧を描いて、美しいしぶきを上げて、落ちたんです」

さしたる理由もなく無垢な少年が死んでしまうこのシーンで作者は何を伝えているのでしょう?
「この物語では無垢なるものは死んでしまうのですよ」と読者に警告しているように感じないでしょうか。
イノセンスは「美しい弧を描いて、美しいしぶきを上げて」落ちてしまう。そんな救いのない世界で何が起きるのか──

1982年、福島県生まれ。音楽、文学ライター。 十代から音楽活動を始め、クラシック、ジャズ、ロックを愛聴する。 杉並区在住。東京ヤクルトスワローズが好き。

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