ヘルマン・ヘッセ『デーミアン ── エーミール・シンクレアの青春記』×ブクステフーデ『パッサカリア』 小説を彩るクラシック#14
ディートリヒ・ブクステフーデ
『パッサカリア』
シンクレアは散歩中に町はずれの教会からオルガンの調べが流れてくるのを耳にします。演奏されていたのはバッハでした。オルガニストの演奏に心を奪われ、この教会がシンクレアの孤独の避難場所になります。
オルガニストの名前はピストーリウス。デーミアンに続いてのメンター的な存在となる人物です。
ピストーリウスと知り合いになり「音楽をやっているのか?」と聞かれ、それに対してのシンクレアの答えが印象的です。
いいえ。音楽は聴く専門です。ただしあなたが演奏するような、なににも束縛されない音楽がいいです。天国と地獄を揺さぶるような感覚を味わえる音楽とでも言いますか。音楽がとても好きなのは、ほかのものと違ってあまり道徳的でないからだと思います。ぼくは道徳的ではないものを探し求めているんです。
ピストーリウスは、今度ブクステフーデの『パッサカリア』という昔のすばらしいオルガン曲を弾く、とシンクレアに約束します。
約束は果たされ、シンクレアはこの『パッサカリア』を大変気に入ります。気が滅入っている日には、この曲の演奏をピストーリウスに頼み、聴くたびに胸を打ち、癒され、魂の声に従おうという気持ちになりました。
飲酒と放蕩に浸っていたシンクレアはこのときから「自己」に目を向け始めます。
学校を卒業し、デーミアンとの再会を果たし、物語がクライマックスにさしかかると、戦争(第一次世界大戦)が始まります。従軍することになったシンクレアは敵の砲弾に吹き飛ばされ、負傷し、デーミアンは負傷したシンクレアのもとに駆けつけました。
物語のラストでシンクレアは自己を発見したことに気づきます。傍らにあるのは痛みだけなのですが、もう友の手は必要ないということを唐突に知るのでした。
周囲との違和、孤独、痛み、堕落を通過してデーミアンは自己に辿り着く──要するにビルドゥングスロマン(成長小説、教養小説)といえるような枠組みなのですが、デーミアンという一般的な規範を超えた存在と、音楽(道徳的ではないもの)を通して、シンクレアが成長していく姿が描かれるのが、この小説の最大の魅力なのではないでしょうか。
バッハ以前の作曲家ブクステフーデの音楽を聴き、シンクレアは「自分の魂の声」に従おうと決心する──再生のターニングポイントとなるこのシーンはとても美しく描かれています。
自分が空っぽだ、と感じるときにこそ音楽は響く。
『デーミアン』は時代を超えた名作です。ブクステフーデの音楽のように現代のわたしたちの心を豊かに響かせます。
参考文献
ヘルマン・ヘッセ(2017年)『デーミアン──エーミール・シンクレアの青春記』酒寄進一訳 光文社古典新訳文庫
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