日本の長崎が舞台のオペラ、プッチーニ【蝶々夫人】あらすじ紹介からジャポニスムまで
オペラ『蝶々夫人』には2つの原作がある
ミラノ・スカラ座初演のポスター(1904年 アドルフ・ホーヘンシュタイン版) 出典:Wikimedia Commons
プッチーニは1900年7月、オペラ『トスカ』のイギリス初演に立ち会うため滞在していたロンドンで、アメリカの劇作家デイヴィッド・ベラスコ(1853-1931)の戯曲『蝶々夫人』を観劇しました。
次のオペラのための題材を探していたプッチーニはいたく感動し、『蝶々夫人』のオペラ化を決意します。プッチーニは終演後に楽屋を訪れ、ベラスコ本人に直接オペラ化を申し入れました。
ベラスコの戯曲『蝶々夫人』は、同名の小説が元になっています。アメリカの雑誌『センチュリー・マガジン』1898年1月号に短編小説『蝶々夫人』が掲載されました。作者のジョン・ルーサー・ロング(1861-1927)は、姉のサラ・コレルから宣教師の夫とともに過ごした日本のことを聞いてこの小説を書き、当時のアメリカでセンセーショナルを巻き起こしました。
Cover of the 1903 edition 出典:Wikimedia Commons
『蝶々夫人』オペラ化について、ベラスコから快諾を得たと思ったプッチーニは、さっそく台本作りに着手しました。しかし、オペラ化の権利はなかなか獲得できません。
この間に、台本作家のルイージ・イッリカは、ロングの小説をもとに台本作りを始めました。しかし、ベラスコの戯曲はロングの小説とは大きく異なっていたため、戯曲の内容を想定していたプッチーニの構想と異なるものになってしまいました。
戯曲と小説という2つの原作の違いがオペラ台本の制作段階から影響を与えたため、プッチーニと2人の台本作家の間ではたびたび激しい論争が繰り広げられました。とうとうみんなでロンドンへ芝居見物にも出かけたとか。
オペラ『蝶々夫人』初演の失敗
ミラノ・スカラ座内部 出典:Wikimedia Commons
数々の困難を乗り越えてようやく1903年12月27日、オペラ『蝶々夫人』が完成しました。楽譜出版社のリコルディ社は1904年2月17日、おひざ元のミラノ・スカラ座で初演します。ところが、この初演が大失敗。プッチーニの成功をねたんだ人々の妨害工作があったと言われています。プッチーニは激怒し、以後『蝶々夫人』のスカラ座での上演を禁じました。
一方で、オペラ自体に問題がなかったわけでもありません。プッチーニは問題を修正し、すぐに改訂版を出します。改訂版は1904年5月28日、北イタリア、ブレーシャのテアトロ・グランデで初演。今度は大成功を収めました。そしてプッチーニは、この後も『蝶々夫人』の改定を続けました。
原作、戯曲から洗練させたオペラの台本
オペラ『蝶々夫人』の基になった2つの原作。小説と戯曲の間には、どのような違いがあったのでしょうか。
一つは、主役の違いです。小説では、日本に向かう船の上でピンカートンと同僚が、日本の現地妻を娶るかどうかを話しているところから始まります。ピンカートンが主役に近い立場で、ストーリーが進んでいくのです。一方戯曲では、ピンカートンのアメリカ帰国後から話が始まります。蝶々さんの生涯最後の日に焦点を絞ることで、より蝶々さんの存在を際立たせています。
ピンカートンの妻、ケイトの扱いも異なります。小説のピンカートン夫人は名前さえありません。蝶々さんとは、アメリカ領事官で偶然出会うだけです。
一方、戯曲においてはケイトの役割が非常に大きく、蝶々さんと対立するシーンさえあります。蝶々さんとケイトを対立させることで、東洋と西洋の対立を表そうとしています。
プッチーニのオペラでは、スカラ座初演版には蝶々さんとケイトの対立が残っていました。しかし、初演失敗後、プッチーニはこの場面をカットしました。
改訂版では、蝶々さんはケイトに対して対立的な感情を持たず、むしろわが子を託す拠り所のように描かれています。
物語の終わり方も、小説と戯曲では全く違うものになっています。小説では子どもは引き渡されず、蝶々さんも生きているかのような書かれ方です。喉に短刀を突き当て自害した蝶々さんを、すぐにスズキが発見するのです。ロングは宣教師の妻である姉の話を基に書いているので、自殺を禁ずるキリスト教の教えに背く内容で小説を終えることができなかったのかもしれません。
戯曲ではオペラと同様、蝶々さんは自害して息絶え、子どもはピンカートンに引き渡されます。
プッチーニのオペラは戯曲に近い内容になっていますが、第1幕の結婚式の場面やそれに続く蝶々さんとピンカートンの情熱的なやりとりは、小説にも戯曲にもありません。台本作家イッリカが手腕を振るった場面です。
第1幕で情熱的な愛が描かれることで、第2幕で展開される蝶々さんとピンカートン、両者の悲劇性がより一層深まります。
ところで、『蝶々夫人』のオペラ化権獲得に1年超待たされたプッチーニ。『蝶々夫人』の前作、『トスカ』のオペラ化を申し込んだ際には、劇作家からもっと有名な作曲家がいいとまで言われた、まだ無名の作曲家でした。しかし、『蝶々夫人』も『トスカ』も、今日ではほぼプッチーニのオペラによってのみ世界的に名が知られている状況です。
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