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日本の長崎が舞台のオペラ、プッチーニ【蝶々夫人】あらすじ紹介からジャポニスムまで

『蝶々夫人』とジャポニスム

19世紀の終わりのヨーロッパで、特に美術や工芸の世界で「ジャポネズリー」といわれる日本的異国情緒が流行しました。流行が拡大したきっかけはパリ、ウィーン、ロンドンなどヨーロッパ各地で開催された万国博覧会です。日本は1867年のパリ万博から参加しました。

この時、幕府の特使として訪仏した徳川昭武に随行していたのが、渋沢栄一です。日本文化が浸透するにつれ、もっと日本を正確に捉えようとする動きが高まります。これが「ジャポニスム」で、オペラにもこの動きが広がっていきました。

クロード・モネ 『ラ・ジャポネーズ』 出典:Wikimedia Commons

オペラとジャポニスム

19世紀後半から20世紀初頭にかけて、日本を題材にしたいくつものオペラが世に出されました。

サン・サーンス『黄色い皇女』

その先駆けが、フランスの作曲家サン・サーンスのオペラ、『黄色い皇女』(1872年初演)です。ただ、その舞台はオランダで、日本好きのオランダ人青年が浮世絵に描かれた日本女性に恋をするという内容でした。

アーサー・サリバン『ミカド』

「ミカド」のポスター。ヤムヤム、ピッティ・シング、ピープ・ボーの三姉妹が描かれている。 出典:Wikimedia Commons

イギリスでは、アーサー・サリバンのオペレッタ『ミカド』(1885年初演)が大ヒットしました。「ミカド」という言葉から分かるように、日本の天皇と思しき人物が登場するドタバタ喜劇です。
実は当時のイギリスの為政者を風刺したコメディなのですが、架空の日本を舞台にして支配階級の批判をかわそうとしたものでした。しかし、あまりに風刺が利きすぎていたため、当時のロンドンの日本大使館が上演禁止を申し入れたほどです。
プッチーニは、このオペレッタに使われた日本軍歌『宮さん宮さん』を参考にしたと思われます。

アンドレ・メサジェ『お菊さん(マダム・クリザンテーム)』

『蝶々夫人』への影響が最も色濃い作品が、フランスの作曲家アンドレ・メサジェのオペラ『お菊さん(マダム・クリザンテーム)』(1893年初演)です。フランス海軍士官ピエールと長崎の現地妻、菊との1カ月ほどの同棲生活を描いたもので、筋書は『蝶々夫人』とよく似ています。原作は、フランス人作家ピエール・ロティの小説『お菊さん』で、ロティ本人の体験談が基になっています。プッチーニがイタリア、コモ湖のヴィラ・デステに滞在していた頃、ここにはオペラ『お菊さん』を作曲中のメサジェがいました。プッチーニはメサジェの『お菊さん』から、日本楽曲『さくらさくら』や日本の風習など多くを参考にしています。

ピエトロ・マスカーニ『イリス』

ピエトロ・マスカーニのオペラ『イリス』の初演のポスター。(1898年)

日本の「遊女」や「芸者」に注目し、女性の悲哀に焦点を絞って描いたオペラが、ピエトロ・マスカーニの『イリス』(1898年初演)です。江戸時代、純真な少女イリスが誘拐されて吉原の遊郭に連れてこられ、唯一の肉親である父親にも見捨てられて絶望し、身を投げるという悲劇の物語です。『イリス』の台本を書いたのは、『蝶々夫人』も手がけた台本作家イッリカでした。マスカーニとプッチーニは、ミラノ音楽院時代の友人であり、ライバルでもあります。プッチーニは『蝶々夫人』で、マスカーニの『イリス』を超えようとしたことは疑いないでしょう。

プッチーニと日本

1873年ウィーン万国博覧会の日本館 出典:Wikimedia Commons

プッチーニは『蝶々夫人』制作に当たって、日本のことを熱心に研究しました。日本の情報がほとんどなかった当時のイタリアで、どのようにして日本のことを研究したのでしょうか。

『蝶々夫人』の幕開けには、紙でできた障子やふすま、庭に続く縁側など、日本家屋の詳細な描写があります。実はプッチーニは、自分の別荘の敷地内に、東屋のある日本庭園を作っていました。日本建築はパリ、ウィーンの万国博覧会で紹介されていました。石やレンガ造りの西洋建築とは正反対の柔軟さを持つ構造で、当時の西洋人を驚かせたとのことです。

日本楽曲に関しては、ローマに駐在していた日本公使夫人の大山久子とたびたび面会して、日本の楽譜やレコードを取り寄せてもらっています。イタリア語が話せた大山久子は、プッチーニに日本の歌を歌って聴かせ、その音楽の背景や日本の文化を説明することができました。プッチーニは、イギリスのグラモフォン社の技師が来日して採録した、日本音楽のレコードを入手していました。このレコードはヨーロッパ中で販売され、後に日本に逆輸入されています。

また、欧米で一大ブームとなった日本劇団、川上音二郎一座の看板女優、川上貞奴の芝居を見ています。1900年のパリ万博では、貞奴が公演で使用した日本楽曲の楽譜が『日本の音楽、貞奴の踊り』と題して出版されました。プッチーニはこの楽譜集を所持していたので、『越後獅子』などの長唄はここからとったようです。

完璧主義者だったというプッチーニ。ジャポニスムに沸くヨーロッパで、可能な限りオリジナルな日本の情報を厳選して集めていたことが分かります。しかし、プッチーニも原作者2人も、一度も日本を訪れることなく作られた『蝶々夫人』。オペラ鑑賞の際、日本人にとって違和感を抱くような場面があることも事実です。

スカラ座で藤田嗣治の舞台美術

初演大失敗の歴史を背負ったスカラ座は1951年、一流オペラ劇場としての威信をかけて、日本生まれでフランスに帰化した画家、藤田嗣治(レオナール・フジタ 1886-1968)が手がけた舞台美術で『蝶々夫人』を上演しました。日本画や歌舞伎装置の技法を使って日本の情景を非常に精緻に描き出したもので、まるで絵を見ているかのような美しい舞台です。衣装草案の詳細なスケッチも残されており、着物の柄や装身具にも指示をつけるなど、藤田嗣治が衣装にも深く関わっていたことが分かります。

『蝶々夫人』の演出には現在でも、中国風の舞台や衣装が使われるなど、日本とはとても思えない演出が多く見られます。それでも世界のオペラ劇場では、演出家浅利慶太やデザイナー森英恵など、日本人の演出家、美術、衣装担当の起用を進めるなどして、違和感のある『蝶々夫人』は減少してきました。

この藤田嗣治の『蝶々夫人』舞台美術は、ウィーン国立歌劇場も1957年から採用しました。スカラ座では20年間、ウィーン国立歌劇場は現在も藤田嗣治の舞台美術による『蝶々夫人』を上演しています。

【ウィーン国立歌劇場】

まとめ

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
オペラ『蝶々夫人』は、プッチーニが日本のことを研究し尽くして書き上げた、ジャポニスム芸術の傑作です。このオペラを知ることは、世界の中の日本を知ることにつながるかもしれません。
そして、プッチーニの傑作と言える、オペラ『蝶々夫人』の甘美な音楽をぜひお楽しみください!

オペラって、素晴らしい!


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神保 智 じんぼ ちえ 桐朋学園大学音楽学部カレッジ・ディプロマ・コース声楽科在学中。子どものころから合唱団で歌っていた歌好き。現在は音楽大学で大好きなオペラやドイツリートを勉強中。

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