20世紀の奇跡のバレエ団「バレエ・リュス」とは?バレエ・リュスの歴史や創設者ディアギレフについて解説
4. バレエ・リュスで活躍したダンサー・振付家
バレエ・リュスでは、多彩なダンサー・振付家が活躍しました。
のちのバレエ界に大きな影響を与え、バレエ史に名を残すバレエ・リュスのダンサー・振付家らを紹介します。
4-1 ミハイル・フォーキン
ミハイル・フォーキン 出典:Wikimedia Commons
ミハイル・フォーキンは、バレエ・リュスを語るうえで欠かすことのできない人物です。
元々、バレエ・リュス参加前は、ロシア帝室劇場のダンサー、バレエ学校の教師、振付家として活躍していました。1909年のバレエ・リュス第1回公演で踊られた『アルミードの館』『ポロヴェッツ人の踊り』を振り付けたのもフォーキンです。
バレエ・リュスにおいては、『薔薇の精』『レ・シルフィード』『火の鳥』など現代でも上演される多数の作品を手がけました。
フォーキンは1914年にバレエ・リュスを離れたあと、世界各国のバレエ団でバレエ・リュスの作品を広めました。そのため、フォーキン振付のバレエ・リュス作品は、今日でも多く残っています。
4-2 ヴァーツラフ・ニジンスキー
ヴァーツラフ・ニジンスキー
美男でも美女でもあるかのような容姿は、ときに両性具有的と例えられることもある。
出典:Wikimedia Commons
ヴァーツラフ・ニジンスキーは、「伝説のダンサー」「100年に1度の天才」と呼ばれています。
元々マリインスキー劇場バレエ団で踊っていましたが、同劇場を去ったあとはバレエ・リュスの専属メンバーとなり、スターダンサー、振付家として活躍しました。
フォーキン振付の『薔薇の精』では、その高い跳躍力と中性的な魅力で観客の心をわしづかみにしたことは先述したとおりです。
ディアギレフがニジンスキーに振付の才能を見出し、教育したことで革新的な作品『牧神の午後』や『春の祭典』が生まれました。
バレエ・リュスを解雇されたあとは自身のバレエ団を立ち上げますが失敗し、その後も戦争捕虜として軟禁されたり、精神を病んだりするなど順風満帆とはいかなかったようです。
1916年の北米ツアーのために一度バレエ・リュスに呼び戻され、自身の振付作品『ティル・オイレンシュピーゲル』を上演しました。
4-3 レオニード・マシーン
レオニード・マシーン、レオン・バクストによる似顔絵
出典:Wikimedia Commons
ニジンスキーに代わるスターダンサーとして見出されたのが、レオニード・マシーンです。
当時、ボリショイ劇場で踊っていたマシーンを見たディアギレフがバレエ・リュスへスカウトし、1914年に入団しました。
第一次世界大戦中に旅行したスペインからフラメンコの踊り手を連れて帰り、彼からフラメンコのステップや音楽について学びました。
マシーンの振付によって、バレエ・リュスにこれまでなかったスペイン風の作品が増え、新たな風が吹き込まれたのです。
ニジンスキー同様ディアギレフの恋人だったマシーンは、団員のヴェラ・サヴィーナとの恋に落ち、1921年に解雇されます。
復帰が許された1925年〜1928年にかけては、背景に映像を用いた『オード』や当時ロシアの最先端の芸術運動「構成主義」を取り入れた『鋼鉄の歩み』などを手がけました。
4-4 ブロニスラヴァ・ニジンスカ
ブロニスラヴァ・ニジンスカ 出典:Wikimedia Commons
ブロニスラヴァ・ニジンスカは、天才ダンサー・振付家 ニジンスキーの実妹です。
ニジンスキーとともにバレエ・リュスに参加し、『牧神の午後』ではニンフを踊っています。
なお『牧神の午後』の振付家は、通常ニジンスキーのみが書かれていますが、ニジンスキー、ニジンスカ兄妹の共同振付であったと言われています。
ニジンスキーの解雇によってバレエ・リュスを離れますが、彼女の才能を認めていたディアギレフたっての希望で、1921年に上演した『眠れる森の美女』でニジンスカに追加振付を依頼しました。
4-5 ジョルジュ(ジョージ)・バランシン
ジョルジュ・バランシン バレエ・リュスで活動した1920年代の写真
出典:Wikimedia Commons
バランシンは、1924年からバレエ・リュスに参加し、バレエ・リュス最後の振付家となりました。
本名は「バランチヴァーゼ」というロシア名だったのですが、呼びやすいようディアギレフによって「バランシン」と命名されたそうです。
1924年の入団以降1929年までの5年間で、再演のための振付や『舞踏会』『放蕩息子』の制作など、多数の振付を行っています。
バランシンは、ディアギレフが嫌っていたジャズやハリウッドなどのアメリカ文化を当時の最先端としてバレエに取り入れたことも特徴です。
バレエ・リュスの解散後は、アメリカにバレエ団を作ってほしいと興行師リンカーン・カースティンから依頼され、1933年に渡米。渡米後に「ジョルジュ・バランシン」から「ジョージ・バランシン」と名乗るようになりました。
バレエ団を作る前提条件として、バレエ学校を先に創設するなど、バレエ教育に重きを置いていた人物でもありました。
1946年にバレエ協会を設立し、これがのちのニューヨーク・シティ・バレエ団となります。
4-6 タマラ・カルサヴィナ
タマラ・カルサヴィナ ペトルーシュカ「踊り子」役
出典:Wikimedia Commons
タマラ・カルサヴィナは、バレエ・リュスのスターダンサー ニジンスキー、マシーン、リファールなどのパートナーを務めた女性です。
元々舞踊一家で育ったカルサヴィナは、マリインスキー劇場バレエ団に入団し、1918年にイギリスに亡命するまで、マリインスキー劇場バレエ団とバレエ・リュスを掛け持ちしながら踊っていました。
バレエ・リュス解散後は、イギリスのバレエ団にバレエ・リュスやマリインスキー劇場のレパートリーを伝えたり、バレエの教育組織ロイヤル・アカデミー・オブ・ダンシング(RAD)の副会長を務めるなど、イギリスバレエの発展に大きく寄与しました。
4-7 アンナ・パヴロワ
アンナ・パブロワ 『瀕死の白鳥』衣装
出典:Wikimedia Commons
アンナ・パヴロワは、マリインスキー劇場バレエ団の名ダンサーです。
バレエ・リュスの旗揚げ公演が行われる1年前の1908年から欧州巡業を行っており、欧州でも人気のあるダンサーでした。
そのため、ディアギレフはパヴロワの知名度を利用しようと、バレエ・リュス1回目の公演に出演するよう彼女に依頼したのでした。
1910年にマリインスキー劇場バレエ団との契約が破棄されると、1911年には自身のカンパニー「パヴロワ・カンパニー」を立ち上げ、イギリスを中心に世界を巡業し、1922年には日本公演も実施。バレエを日本に広く知らしめました。
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