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江國香織『ウエハースの椅子』× 物語を示唆するカラヤン,M.ナイマン,モーツァルト 小説を彩るクラシック#3

江國香織『ウエハースの椅子』

江國香織といえば、都会的で詩的な文章を綴り、切なさや美、日常の機微を掬いとる大人気作家です。その表現は小説だけに留まらず、エッセイや翻訳、詩作などにも及び、実に多彩。

数多くの著作があり、『きらきらひかる』では第2回紫式部文学賞を受賞。『号泣する準備はできていた』で第130回直木賞を受賞。『ヤモリ、カエル、シジミチョウ』では第51回谷崎潤一郎賞を受賞しています。

エッセイストの父を持ち、書斎から聴こえてくるのは、スタンダード・ジャズ。母親は、エディット・ピアフやイヴ・モンタンなどのシャンソンを好むという、江國香織の小説世界を思わせるお洒落な音楽環境で育ったようです。

自身はクラシック音楽を好み、バロック時代の音楽に惹かれ、楽器の中ではチェロに関心があるそうです(2016年に行われた『ギンザ・ブックカフェ・コンサート』では、チェリストの上森祥平の手ほどきでチェロの演奏体験をしています)

『ウエハースの椅子』

江國香織ファンの中でも「これが一番好き!」という方も多いのではないでしょうか?
恋愛の“素晴らしさ”、恋愛の“不可避的などうしようもなさ”、満たされている恋愛ゆえの痛み、渇きを江國香織流の上質な繊細さで描いています。

ストーリー

主人公の「私」には「完璧」な恋人がいます。「私」は、画家で、38歳の未婚。アトリエで絵を描き、素敵なスカーフをデザインし、休憩中にはハーブティ、音楽、たまに訪ねてくる妹とランチ……

そして、知的で、金銭的余裕とユーモアがあり、「私」の代わりに食事を作り、何よりとても優しい彼との恋愛を何度も「完璧だ」と感じ、「満たされている」と思う「私」。
ただ、彼には家庭があり、この完璧な恋愛はどこにもいけないものだ、という認識を持っています。

静かで、狂おしいこの物語はどこへいくのか? そこには出口といったものがあるのか? 美しい文体で描かれたちょっとだけ残酷な恋愛小説です。

ヘルベルト・フォン・カラヤン『ロマンティック・カラヤン』

『ウエハースの椅子』には様々な音楽が登場します。そのどれもが物語の情景にマッチしていて、小説世界を鮮やかに(ときに切なく)彩ります。

「私」と恋人は「私」が38歳の誕生日に旅行に出かけます。旅行中はこれ以上ないという幸福感に包まれ、「私」の言葉を借りるなら「べたべたに甘い」時間です。

旅行から帰ってきた「私」が、自宅のソファに座ってハーブティを飲みながら孤独に聴く音楽がヘルベルト・フォン・カラヤンの『ロマンティック・カラヤン』です。

このアルバムは、マスカーニの歌劇『カヴァレリア・ルスティカーナ』間奏曲で始まり、ワーグナーの楽劇『トリスタンとイゾルデ』から〈イゾルデの愛の死〉で終わります。
死によって愛が成就するというモチーフを持った〈イゾルデの愛の死〉がこの物語の結末を示唆しているようで、不穏な感触を残します。

マイケル・ナイマン

ある夕方、恋人は「私」のお風呂場のカビとりをしてくれます。近くの公園を気持ちよく散歩し、二人は普通の夫婦の日常のような午後を過ごします。

恋人は「今日は泊まっていける」と「私」に話し、「私」は喜びます。30枚ほどのコレクションの中からマイケル・ナイマンを選び、二人でピアノの旋律を聴きながらビールを飲む。
お洒落なディナーや、ロマンティックな海外旅行よりも、この「ただの日常」を恋人と過ごすことのほうに、本当の喜びを感じている「私」。

それを表すように、マイケル・ナイマンの音楽が二人の空間を満たし、情景的にも非常にマッチしているように感じられます。

曲名は書かれませんが、「美しい旋律のピアノが次第に感情を増し~(『ウエハースの椅子』ハルキ文庫P65)」という描写から、印象的なピアノの旋律がエモーショナルに高まっていくピアノソロ曲『楽しみを希う心』のような気がします。

ペーター・シュライアー指揮 モーツァルト『レクイエム』

物語の後半で、「私」が夜更かしをしながら聴くのが、ペーター・シュライアー指揮のモーツァルト『レクイエム』です。

「私」は、お風呂上りの落ち着いた気持ちで、「最良の仕事がしたい」、でも、「このまま死んでいってもかまわない」、と考えます。ここには、絶望といった負の感情はなく、とても静謐で透明な感情が現れていて、その情景にモーツァルトの凛とした『レクイエム』が物語に寄り添いながら、下支えしているように感じます。

江國香織は、日本経済新聞のインタビューで「音楽は避けようがなく触れてくる、本みたいに閉じることができない。音楽はその意味では乱暴だ。だから人の心を震わせる。不意に自分でも持っていないところを震わせられるから困る───」と語っています。

この感覚は、唐突にやってくる「恋愛」に似ている気がしませんか? 避けようがなく、不意に心を震わせる───だからどうしていいかわからなくなる……。

こういった気持ちに寄り添ってくれるのが上質の音楽であり、物語なのかもしれませんね。




参考文献
江國香織(2004年)『ウエハースの椅子』ハルキ文庫


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1982年、福島県生まれ。音楽、文学ライター。 十代から音楽活動を始め、クラシック、ジャズ、ロックを愛聴する。 杉並区在住。東京ヤクルトスワローズが好き。

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