クララ・ヴィーク=シューマン|Clara Wieck-Schumann 1819-1896
Clara Wieck-Schumann
1819年9月13日 - 1896年5月20日
出生地:ザクセン、ライプツィヒ 没地:プロイセン、フランクフルト
クララ・ヴィーク=シューマンは19世紀ドイツで、ピアニスト、作曲家として活躍した女性である。彼女の名は、ローベルト・シューマン(1810-1856)の妻として一般によく知られている。
有名なエピソードは、ローベルトやヨハネス・ブラームス(1833-1897)との愛の物語だろう。また、フェリックス・メンデルスゾーン(1809-1847)などの作曲家たちとも交流を持っていた。
ではクララの功績は、これら偉大な男性作曲家たちとの親しい関係によって成し遂げられたものだったのだろうか。
クララは幼少のころにピアニストとして頭角を現した、いわゆる「神童」だった。10代で音楽の都、パリ、ウィーンで名声を得た有名人だったのだ。シューマン、ブラームス、メンデルスゾーン、ショパンらの作品をヨーロッパ各地で演奏し、その音楽を紹介したのは、むしろクララだった。
その圧倒的な知名度を武器に、彼女が理想とする芸術としての音楽を表現しうる作品を、次々とレパートリーに加えていった。それは現在に至るまで、ピアニストのプログラム構成に大きな影響を与えている。
職業人としての女性の活躍が現在ほど自由ではなかった19世紀のヨーロッパで、どうしてクララはこれほど知名度を獲得し、偉業を成しえたのだろうか。これは教育者で音楽家の父、フリードリヒ・ヴィーク(1785-1873)の存在がとてつもなく大きい。父の存在は、クララの生涯に良くも悪くも影響を与え続けた。
作曲についていうと、クララの作品はそれほど多くない。ローベルト・シューマンの死後、クララは彼の作品を伝えることに精力を傾けた。クララは自身の理想とする音楽が、ローベルトの作品の中に生きていると考えたのではないだろうか。なぜならクララとローベルトはその出会いから一貫して、あらゆる芸術的分野で霊感を分け合って生きていたからだ。
1.クララ・シューマンの前半生
クララ・シューマンの前半生
1.1|生い立ち
クララ・ヴィーク=シューマンは1819年9月13日、ザクセンのライプツィヒで、音楽教師で音楽家である父フリードリヒ・ヴィークと、声楽家でピアニストの母マリアンネ・トロムリッツ(1797-1872)の間に、第二子として生まれた(第一子は生後まもなく死亡している)。
クララは4歳のとき、両親の離婚を経験する。母マリアンネはクララを連れて家を出たが、法に従い5歳の誕生日までクララをそばにおくことを許された。そして、5歳の誕生日の4日後、クララはライプツィヒの父の元に戻される。戻ってきたクララに、ヴィークは本格的な音楽教育を開始した。
クララは4歳になっても一言も言葉を話さず、耳が聞こえないのではないかと疑われた時期があった。それは8歳になるまで続き、子守り役の家政婦が無口なことが原因だとして、ヴィークはこの家政婦を解雇する。彼女はたった5歳で、最も慕っていた2人の女性との別離を経験しなければならなかった。幼少時のクララが長い間口をきかなかったのは、家庭内の不和に原因があると考えられている。一方で、音楽には特別な反応を示していた。クララは4歳ですでに、簡単な曲を聞き取ってピアノで再現することができた。
クララ・シューマンの前半生
1.2|父と母
クララの父フリードリヒ・ヴィークは、自他ともに認める優れた教育者だった。後にクララの夫となる作曲家のローベルト・シューマンのほか、ピアニストのハンス・フォン・ビューロー(1830-1894)にもピアノを教えている。
プレッチュの貧しい商家の末子として生まれたヴィークは情熱的に芸術を愛したが、子どものころは体が弱く、継続的に音楽教育を受けることができなかった。
大学で神学を修めたヴィークは卒業後、裕福な家の家庭教師の職に就き、啓蒙主義や教育理論を徹底的に学んだ。後に、これらの理論を音楽教育にも応用していく。同時に、ほぼ独学で作曲を習得。ドイツオペラの巨匠、カール・マリア・フォン・ウェーバー(1786-1826)に複数の歌曲を献呈した。ウェーバーはヴィークに、作品に対する詳細なコメントを書いて送った。
1815年、30歳のヴィークはライプツィヒでピアノ販売店を開き、ピアノ教師となって音楽教室を経営するようになる。そこに生徒としてやってきた、声楽家のマリアンネ・トロムリッツと出会った。
1816年、ヴィークは19歳のマリアンネと結婚する。マリアンネは高名なフルート奏者ヨハン・ゲオルク・トロムリッツを祖父にもつ音楽一家の出で、演奏家として十分な実力を備えていた。結婚した年、マリアンネはヴィークの生徒の中で初めて、ゲヴァントハウス(ライプツィヒにあるコンサートホール)の舞台に立った。その後も数年間、ゲヴァントハウスの演奏会に出演し成功を収めている。妻の成功はヴィークの名を世に広めた。
マリアンネは5人の子供を出産して家政を取り仕切る一方、演奏活動を続け、歌とピアノのレッスンを受け持って夫の仕事を助けた。長じてからのクララの行動をみれば、この母の強靭な精神と決断力、膨大な仕事を的確に対処できる能力を、娘がそっくり受け継いだことが分かる。しかし、強い性格のマリアンネと気性の激しいヴィークは、子育てやあらゆることを巡ってたびたび対立した。ヴィークとの生活に耐えられなくなったマリアンネは1824年5月、クララと生まれたばかりの息子(第五子。3年生きられなかった)を連れ、第三子アルヴィンと第四子グスタフを残し、ヴィークのもとを去る。クララは4カ月間マリアンネの実家で暮らしたが、5歳の期日を迎え父の元に戻された。その後1825年1月、ヴィークとマリアンネの離婚が成立した。
クララ・シューマンの前半生
1.3|ヴィークの教育
戻ってきたクララにヴィークは、綿密に熟慮を重ねた教育計画を準備した。その教育方針の柱は、個性の尊重と身体の鍛錬だ。
生徒が自ら考え学ぶことを重要とし、豊かな感受性を養い、心に感じたことを音の響きとして表現するための身体感覚の習得を目指した。
一方で、ピアノの練習時間は1日3時間程度。ピアニストの練習時間としては意外に短く思うかもしれない。ヴィークが重視したことは、「美しい音楽」、「心のある演奏」だった。練習が単なる機械的な指の運動になってはならず、心が消えてしまうほど練習してはならないと考えていた。そのため、自ら作曲もして、年齢ごとにふさわしい練習曲を用意している。
ヴィーク家の日課には数時間に及ぶ散歩が含まれていた。クララも3歳の時から散歩を始める。これが彼女の丈夫な身体を作り、過重な負荷や苦難に耐えるエネルギーと忍耐力を養った。おそらくヴィークは、病気がちだった自分の子ども時代の経験を踏まえ、健康な身体が何にも勝ると考えたのだろう。クララはこの習慣を結婚後も続けた。
そしてヴィークは、非常に興味深い方法でクララに知識を伝授している。クララは7歳から日記を書き始めたが、18歳になるまでの多くの文章は、父によって書かれたか、父の監視のもとに書かれた。クララが自分で書いたもののほとんどは、ヴィークがさまざまな人に宛てて書いた手紙の筆写だった。
例えば、出演料の交渉、演奏会評に対する苦情、敵対的な相手に対する批判や告発など。クララは、日記における手紙の筆写や父の記述を読むことで、読み書きだけでなく、ビジネスに欠かせない文通の方法、演奏活動に必要な準備や手続き、金銭感覚などを学びとっていった。そして、成功に対する姿勢や強い競争心といったヴィークの性格さえも自分のものにしていったのだった。
音楽理論や和声、作曲、対位法などは、専門の教師から個人教授を受けている。ライプツィヒで上演されるほとんど全てのオペラや演奏会、演劇も鑑賞した。将来ヨーロッパ各地を演奏旅行で回るために、英語とフランス語も勉強し、インターナショナルなキャリア形成に必要な全てを身に付けていった。
一方で、一般教育に対するヴィークの関心は不十分だった。クララは1年半ほど学校に通ったが、ピアノのレッスンなどのためにたびたび授業時間が短縮された。このため、自分が無知で無学であるという劣等感がずっと彼女に付きまとった。
クララ・シューマンの前半生
1.4|神童時代
ヴィーク家には連日、ライプツィヒの多くの音楽家や音楽愛好家が集まった。定期的に音楽の集いを開催し、作曲家のハインリヒ・マルシュナー(1795-1861)や、『一般音楽新聞』(19世紀当時の最も有力なドイツ語による音楽定期刊行物)の編集者、ゴットフリート・フィンクらが顔を連ねた。
クララは初め、このような私的な集まりで演奏の経験を積んでいった。1828年3月11日、9歳のクララは、医師で音楽愛好家のエルンスト・アウグスト・カールス博士の自宅で開催された音楽会で、フンメルの『ピアノ三重奏曲』(Op.96)を演奏。おそらくこの時、ライプツィヒ大学の法科に在籍していたローベルト・シューマンは、彼女の演奏を聴いたのだった。
同年10月20日、クララはゲヴァントハウスの演奏会で、ヴィークの女子生徒と二重奏曲を共演した。出演はこれだけだったが、クララの演奏は喝采を浴びた。翌1829年10月、クララはライプツィヒを訪れていたヴァイオリニストのニコロ・パガニーニ(1782-1840)の前で、自作の『ポロネーズ変ホ長調』などを披露する。この時パガニーニは、クララの音楽的才能を高く評価した。
1830年3月にドレスデンでの演奏旅行を成功させ、11月8日、いよいよ本格的なキャリアの第一歩となる初の自主公演を、ゲヴァントハウスで開催した。11歳のクララは、フリードリヒ・カルクブレンナー(1785-1849)の『華麗なるロンド』(Op.101)、アンリ・エルツ(1803-1888)の『華麗なる変奏曲』(Op.23)、カール・ツェルニー(1791-1857)の『4台のピアノのための協奏的四重奏曲』(Op.230)などのほか、自作の変奏曲を披露。クララの演奏に魅了された聴衆は、新たな「神童」の登場に熱狂した。
クララの実力と成功を確信したヴィークは1831年9月、音楽の都パリへ演奏旅行に出かける。立ち寄ったヴァイマールでクララは、文豪ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(1749-1832)の前で演奏した。83歳のゲーテは、クララを称える銘文を刻んだメダルを授与している。
しかしパリ滞在中は、運悪くコレラの流行に重なった。このため思い通りの成功とはならなかったが、後々まで親交を結ぶこととなるフェリックス・メンデルスゾーンや、フレデリック・ショパン(1810-1849)、フランツ・リスト(1811-1886)らとの面識を得た。
クララ・シューマンの前半生
1.5|ローベルト・シューマンとの結婚
ローベルト・シューマンは1828年の夏、ヴィークにピアノを習い始めた。しかし翌年、法学の勉強のためハイデルベルクへ移る。そして、クララがゲヴァントハウスでの初の自主公演を目前に控えた1830年10月、音楽の道を進む決意を固めた20歳の若者は、ライプツィヒのヴィークのもとに戻ってきた。内弟子となってヴィーク家の2部屋を間借りし、ピアノの練習と音楽の勉強に打ち込んだ。
愛情深い家庭に育ったローベルトは、自分の部屋にクララや彼女の弟たちを招き入れ、童話を話して聞かせたり、一緒に遊んだりした。幼くして実母と別れ、厳しい父の元で音楽一筋に生きてきたクララは、ローベルトと過ごす時間の中に、優しい家庭のぬくもりを感じたかもしれない。ローベルトが指の故障のためにピアニストになる道を諦め、作曲家に転身する決意を固めた1832年以降は、クララがピアノで演奏してローベルトの作った曲を彼に聴かせた。
クララとローベルトの交際は1835年から始まった。1837年9月13日、ローベルトは手紙でクララとの結婚をヴィークに申し込む。しかし、ヴィークは何の返事もせず、10月15日にクララとウィーンへ旅立っていった。
このウィーン演奏旅行は、クララの音楽家としての名声を不動のものとする。パリと並ぶヨーロッパの音楽文化の中心地で1838年、弱冠18歳のクララは王室の御前で演奏し、ハプスブルク家の王室宮廷音楽家に叙せられたのだ。女性でプロテスタントのクララが、カトリックのウィーンで最も名誉ある称号を得たことは驚くべきことであった。
ヴィークは、クララとローベルトの交際を断固として認めなかった。手塩にかけて育てたクララの音楽家としての輝かしいキャリアが、結婚によって途切れるのは許しがたいことだった。ローベルトの財力に不安を感じていたし、彼の繊細な精神を見抜いていた。クララという一家の稼ぎ頭を失うことを恐れてもいただろう。
一方でヴィークは、ローベルトの才能をとことん評価していた。ローベルトの新しい音楽を誰よりも認めていたし、結婚を巡って対立関係にあった時期でさえ、クララのレパートリーにローベルトの曲を取り入れたのはヴィークだった。
1840年、ヴィークとの壮絶な法廷闘争の末、クララ21歳の誕生日の前日に2人は結婚する。ローベルトはこの年、100曲以上もの素晴らしい歌曲をたった1年で書き上げた。いわゆる「歌の年」である。シューマン夫妻とヴィークは1843年に和解している。
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