クララ・ヴィーク=シューマン|Clara Wieck-Schumann 1819-1896

2.音楽史上のクララの後半生

音楽史上のクララの後半生
2.1
|女性職業演奏家として

神童として活躍した多くの女性音楽家が結婚を機に引退するのとは異なり、クララは演奏活動を続けた。

19世紀、女性が演奏旅行などをするためには、父親や夫など男性の保護と支援が不可欠だった。しかしクララは、自分一人で演奏旅行をやり遂げる能力と自信を結婚前に身に付けていた。

1839年1月、ローベルトとの結婚を巡ってヴィークとの関係が冷え切っていたころ、クララは父の同伴なしにパリへの演奏旅行に出る。車も列車もない時代、女性だけの旅行にはさまざまな危険が付きまとった。女性旅行者への人々の目も厳しかった。
しかしクララは、ヴィークがそうしていたように道すがら演奏会を開いて資金を集め、縁故を頼って人脈を広げながら、パリで成功を収めた。まさに父の教育は正しかった。この経験によってクララは、自分一人で演奏旅行ができるという自信を深めたのだった。

クララとローベルトの間には8人の子どもが産まれる(1人は生後間もなく死亡)。2度の流産も経験し、彼女はほぼ途切れなく妊娠していた。ローベルトは作曲家として名が知られ、自ら創設した音楽雑誌『新音楽時報』の編集者でもあったが、クララの稼ぎと知名度は比べ物にならない。クララが演奏旅行に出さえすれば、相当の生活費が稼げる。しかしこれは、ローベルトのプライドを傷つけた。夫婦間には常に、金銭上の問題が浮上した。

1842年ごろから、ローベルトは断続的に精神的な症状に悩まされていた。1844年、ローベルトは深刻な虚脱状態におちいる。改善を期待してライプツィヒを離れたが、病状に変化はなかった。1854年2月、ついにライン川に入水自殺を図り、3月にエンデニヒ精神病院に入院した。ローベルトの入院中、クララは夫に会うことを制限された。

実はクララの演奏活動は、ローベルトが入院した1854年以降に活発になる。夫の入院費用の捻出と、子どもたちの生活を守るためだった。一方で、クララの職業演奏家としての本格的な活動再開の契機になった。妻が夫以上に職業人として活動することへの社会的批判は、19世紀のドイツ市民社会に幅広く浸透していた。そのような社会意識をクララ本人も少なからず持っていたようだ。しかし、家族を守るためという差し迫った状況が、この心理的障壁を取り払った。

1856年4月14日、クララはロンドンデビューを果たす。以降クララは、どこよりも多くイギリスで公開演奏の舞台に立った。市民階級が台頭していたロンドンは、音楽文化が他とは異なる形で発展していた。ヨーロッパの他の都市で演奏会を開くためには、出演依頼から報酬の交渉などまで人脈を頼って実現する必要があったが、ロンドンでは全て1人のエージェントを通じて手配することができた。また、ロンドンには各音楽協会が開催するコンサートシリーズがあり、クララはこれらのシリーズに定期的に出演した。

音楽史上のクララの後半生
2.2
|作曲家として

ローベルトとの結婚生活の中で、クララは日記にこう書いている。

「自分で何かを作曲し、それを聴くことほど大きな喜びはない」、「でもそれはやはり、常に力強さを欠き、しばしば創意を欠いた女性の作品でしかない」

ナンシー・B・ライク著、『クララ・シューマン―女の愛と芸術の生涯―』音楽之友社 p.453

作曲は彼女に無上の喜びをもたらした。一方で彼女は、自分の創造性に懐疑的な思いを抱き続けた。

神童時代のクララは、自作を多数コンサートのプログラムに入れている。演奏家は自分の演奏技術の高さを見せつけるために、超絶技巧満載の曲を作るのが当然だった。しかし、18世紀末から19世紀半ばにかけて、このような音楽を否定する人々が現れる。その代表格がローベルトだった。音楽の持つ精神世界を重視し、芸術に高めようとする中で、ヨハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)、ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-1791)などの過去の作品が見直されていったのだった。

このような変革の中で、作曲行為が創造性を伴うものとして神聖視されるようになる。そしてさらに、女性は創造性に欠ける、という社会通念と結びついていった。
前掲の日記の記述からは、クララもこのような社会通念から脱することができなかったことがうかがえる。女性の作品であるという理由だけで、女性たち自身さえもが、まともに評価しようとしなかったのである。

それでもローベルトが生きている間は、彼に励まされて作曲を続けた。

結婚から数カ月たった1841年1月、前年から歌曲の創作に情熱を注ぎ続けていたローベルトは、フリードリヒ・リュッケルト(1788-1866)の詩集『愛の春』から、クララも歌曲を作るよう要望を出した。彼女はあまり乗り気ではなかったようだ。同年5月の彼女の日記にはこう記されている。

「わたしはもう何も作曲できない。わたしはすべての詩情から見放されてしまった」

ナンシー・B・ライク著、『クララ・シューマン―女の愛と芸術の生涯―』音楽之友社 p.457

それでも6月8日のローベルトの誕生日に、4曲の歌曲を作り上げて彼にプレゼントした。こうして、ローベルトの9曲、クララの3曲をまとめた歌曲集『愛の春』(ローベルトop.37、クララop.12)を2人の共同作品として出版した。

彼女は、ローベルトに及ばぬ創造性に劣等感を感じ、自分の作曲に対する彼の評価を恐れていた。ローベルトの方は、クララの創造性に非常な関心を向けていたのだが。ローベルトはクララの作品をひそかに出版して妻を驚かせようとし、出版社と手紙を交わしたりもしていた。

1856年7月29日、入院先の精神病院にてローベルト永眠。クララは彼の死の2日前まで、夫に会うことができなかった。ローベルトの死の直前に書き上げブラームスに贈呈した『ロマンス・ロ短調』を最後に、クララは事実上、作曲の筆をおく。
彼女に作曲を促し、霊感を与え続けたローベルトという存在はもういない。そして、自分の能力を最大限に発揮できるのは演奏すること、自分は芸術の創造者ではなく解釈者だと考えた。

ローベルトと出会って以来、作曲するときも演奏するときも2人はインスピレーションを与え合い、音楽の理想を分け合ってきた。彼女が体現したい音楽は、ローベルトの作品の中に息づいている。ローベルトの音楽を継承し伝えていくこと、それが自分自身の音楽の理想の世界でもあるという思いを、クララは強くしていった。

音楽史上のクララの後半生
2.3
|芸術としての音楽の継承者として

1850年代以降、クララのプログラムから自作曲がほぼ姿を消した。代わってローベルトのほか、ショパン、メンデルスゾーン、ブラームスなど同時代の作曲家の新しい音楽を積極的に紹介した。同時に、バッハ、ベートーヴェン、モーツァルトなど、過去の作曲家の作品にも注目し、プログラムに加えている。

こうした音楽は当時の大衆にすぐ受け入れられるものではなかったが、適切なタイミングを何年でも待った。クララは芸術としての音楽を体現するプログラムを組み立て、各地で演奏することでパイオニアの役割を果たした。次第にクララがヨーロッパ各地で演奏したこれらの曲を、他の多くのピアニストも取り入れるようになり、クララのプログラム構成は、後世のピアニストの手本となっていく。

音楽史上のクララの後半生
2.4
|ブラームスとの交流

クララの人生で大きな存在感を持つもう一人の男性、ヨハネス・ブラームス。1853年9月末、20歳のブラームスは、デュッセルドルフに住んでいたシューマン夫妻を訪ねた。意気投合したブラームスは、約1カ月夫妻のもとにとどまる。この間にブラームスとシューマン夫妻は友情を深めた。ローベルトの自殺未遂の知らせを受け取った時には、ブラームスはすぐにデュッセルドルフに駆け付け、クララと子どもたちを献身的に支えた。

ローベルトの死後、彼の未発表作品の出版について、クララがまず相談した人物はブラームスだった。1879年にローベルトの全作品の校訂版を編集することになった際にも、真っ先にブラームスに助言を求めている。

2人の親密なやり取りのために、クララとブラームスの間の恋愛関係が取りざたされるが、これを裏付けるものは何もない。恋愛関係に近い状態になった時期もあったと考えられるが、2人は親密な友人関係を続けた。クララはローベルトとの結婚生活の中で、7人の子育てや家事などのために音楽活動を制限せざるを得なかった。そんな彼女が、結婚という生活を再び選ぶことはできなかったに違いない。クララが再婚することはなく、ブラームスも生涯独身を貫いた。

1896年5月20日、クララ永眠。76歳だった。逝去の知らせを受け取ったブラームスは急いで列車に飛び乗った。40時間を要して葬儀が執り行われていたボンに到着し、棺の埋葬になんとか間に合う。ブラームスはその音楽追悼式で、クララの死の直前に書き上げた彼の最後の歌曲、『4つの厳粛な歌』(op.121)を初演した。

この歌曲は公式には友人の画家に献呈しているが、初演はこの追悼式で行われた。この作品が同年7月に出版された際にブラームスは、クララとローベルトの長女、マリー・シューマン(1841-1929)に次の言葉とともに送った。

「わたしたち皆の心の奥深くには、ほとんど無意識のうちにわたしたちに語りかける、あるいはわたしたちを促す何か、ときどき詩や音楽の響きとしてたち現れる何かがあります。あなたはこれらの歌曲をいますぐに通して演奏することなどできないと思います。その言葉があまりに痛ましく感じられるでしょうから。しかし、わたしはそれらを、・・・あなたの愛するお母上への真の記念碑と考えていただきたいのです。」

ナンシー・B・ライク著、『クララ・シューマン―女の愛と芸術の生涯―』音楽之友社 p.403


そして1897年4月3日、クララの一周忌の直前に、ブラームスもこの世を去った。

神保 智 じんぼ ちえ 桐朋学園大学音楽学部カレッジ・ディプロマ・コース声楽科在学中。子どものころから合唱団で歌っていた歌好き。現在は音楽大学で大好きなオペラやドイツリートを勉強中。

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