ジャン・コクトー『雄鶏とアルルカン』×エリック・サティ『パラード』小説を彩るクラシック#19
『雄鶏とアルルカン』
コクトー初の音楽小論『雄鶏とアルルカン』ではエリック・サティへの賛辞をアフォリズム(警句)の形で書いており、サティの存在を際立たせるために、文中ではドビュッシーを批判するところもあります。
タイトルの「雄鶏」は、優雅でフランス的に素朴なサティをあらわしており、「アルルカン(道化)」はドイツやロシア音楽の影響を受け、装飾的な音楽指向性をもったドビュッシーをあらわしています。
コクトーは、サティの「シンプル」さを最大の美質と捉えており、『雄鶏とアルルカン』で次のように語ります。
美とはシンプルであるはずなのに人々はなぜか勘違いしている
サティは最先端である革新性を、即ちシンプルさを提唱する。誰よりも洗練さを主張したのは他でもなく彼ではないか。彼こそがリズムを削ぎ落として簡潔にしたのである。これぞニーチェのいう「そのなかで精神が泳ぐ」音楽であり、更に「その上で精神が踊る」音楽ではなかろうか
一方、ドビュッシーに対してはこう語ります。
ドビュッシーが道を踏み外したのはドイツの策略でロシアの罠に陥ったためである。更にペダルがリズムを曖昧にし、盲目的な聴覚に適した環境をもたらしたからであろう。
コクトーのこのドビュッシーへの辛辣な評価は、おそらく意図的なものでしょう。若きコクトーの挑戦と野心が、この小論にはあらわれているように思います。
サティの反逆とはシンプルへの回帰である。それが洗練され尽くしたこの時代に残される唯一の反逆といえよう。『パラード』は雑音によるオーケストラだと勘違いした批評家らは暗示的音響としてしか解釈し得なかったのであり、また(腐りきっていない惰性から)誤って用いられた《キュビズム》という表現が、ある種のオーケストラを辛うじて彼らに示唆させたのであろう。そうでなければこのシンプルな楽譜による『パラード』と、あの革新的な多声音楽による『春の祭典』に対する批判の統合性が取れない。
印象主義の音楽家らは『パラード』のオーケストラにはソースが添えられていないので貧弱だと思ったようである。
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