知られてない事実!ドビュッシー/印象派〜クラシック作曲家ドビュッシーは、印象派画家のモネや葛飾北斎の影響により、偉大なレガシーを作った
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クラシック音楽の「印象派」とは?
ドビュッシーが「印象派」とされた始まりは1888年、芸術家の登竜門であったローマ大賞を受賞したドビュッシーが、ローマ留学の成果報告として交響組曲『春』をフランス芸術アカデミーに提出した時のことでした。
アカデミーの評価には「色彩感覚や詩的感覚の行き過ぎによって形式の重要性を忘れている」「あの漠然とした印象主義に注意するように」と、画家たちと同じく批判の意味で印象主義と記されていました。
印象主義音楽の特徴は、連続的な不協和音や、長・短音階以外の音階の使用、多数のリズムパターンの併用など。これにより、和声進行やリズムが曖昧になります。
この実験的で革新的な音楽様式は、当時の作曲家たちに広く影響を与えました。音楽の分野においては「印象主義音楽」というカテゴリーはあるものの、「印象主義音楽の作曲家」としてはっきりと分けられるものではありません。
一般的には、クロード・ドビュッシー(1862-1918)のほか、モーリス・ラヴェル(1875-1937)が代表的な作曲家として取り上げられることが多いです。
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ドビュッシー自身は、印象派と言われることを嫌がっていた?
目の前にある世界そのものを写しとる印象派画家の主題に対して、象徴主義は文学者たちを中心に”目には見えない世界、観念、精神や魂”など、詩的世界を主題としました。しかし、印象を極めていくと象徴へ辿り着くと言われるように両者は地続きにあります。
複雑な事情から幼少期の学びを読書から得たドビュッシーにとって、パリの「独立芸術書房」や「火曜会」へ集まる象徴派の詩人たちとの交流はごく自然な流れであったことでしょう。テーマや詞は象徴派からの影響が色濃く、そして象徴派に支持されたワーグナーからも強く影響されています。ドビュッシー自身の意識は当時の最新鋭である象徴派の中にありました。
世間からは「印象派」と呼ばれていましたが、印象派画家、象徴派の詩人との交流にとどまらず、古代の音階、東洋の音楽、ロシアの音楽と、幅広く学び吸収することにより音楽そのものを自分なりに捉え、可能性を追い求めた作曲家でした。
2.ドビュッシーの略歴
ドビュッシーは1862年、フランスのパリ郊外サン=ジェルマン=アン=レーで生まれました。
幼いころからピアノを弾き、なんと10歳で由緒あるパリ音楽院へ入学。数々の学内コンクールで賞を獲得するなどの優秀な成績を残し、ピアニストとして順調に歩んでいました。
しかし、1878年、1879年のコンクールで1等賞を逃したことから、若くしてピアニストとしての道を断念。作曲活動を本格化させ、成功を収めていきます。
その後、ドビュッシーは印象派の芸術家や象徴派の詩人たちと交流を持つようになり、さらにパリ万博で出会ったガムランに強く惹かれます。曖昧なメロディーラインなどの印象主義音楽要素、アジアの音階を取り入れるようになり、独自の世界を作っていきました。
彼は主音の呪縛殻だけでなく、低い重心からも逃れた。といって彼は、低音を捨てたのではない。ドビュッシーは、低音に基礎をおくヨーロッパと、高音から吊り下がるアジアを和解させようとしたのかもしれない。彼は「経済設計」の腕を磨き、低音に支えられて高音があるのではなく、低音も高音も対等にあり、均衡しあうような響きを編み出した。そのようにしてドビュッシーは、西洋近代音楽を革新した。
片山杜秀『音楽放浪記 世界之巻』p75
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