20世紀の奇跡のバレエ団「バレエ・リュス」とは?バレエ・リュスの歴史や創設者ディアギレフについて解説
3. バレエ・リュスの歴史
1909年の結成から1929年の解散までのバレエ・リュスの主な歴史を紹介します。
1909年 パリ・シャトレ座での公演
1909年、ディアギレフはロシアバレエを西欧、特に当時の芸術の中心地であったパリの人々に紹介するため「ロシア・シーズン」を企画しました。
ロシア帝室劇場のダンサーとオフシーズンである5月〜9月の間契約を結び、公演を行ったのです。
これが、後にバレエ・リュス1年目として数えられる公演となりました。
1909年の公演は、希望していたパリ・オペラ座での公演は叶わず、当時は子ども向けの公演などを行っていたシャトレ座で行うこととなりました。
公演に際し、ディアギレフは古ぼけたシャトレ座の改装から手がけたというから驚きです。オーケストラボックス(※)を作ったり、椅子を新しいものに替えたりするなど「帽子箱のように変身した」と新聞で書かれるほど見事に内装を変えたと言われています。
(※オーケストラピットとも。オペラやバレエの舞台で、音楽の演奏者が舞台を遮らないように客席と舞台の間に設けられる、楽団がまるごと隠れる穴。新設するとなると大がかりな改装といえる)
演目は、ミハイル・フォーキン振付の『アルミードの館』『ポロヴェッツ人の踊り』と小品集的作品の『饗宴』でした。
当時のパリの人々にとって、ロシアのイメージは「田舎」。しかし、ロシア帝室劇場のダンサーたちが踊る高度な踊りと、鮮やかな色彩の舞台美術、観たこともない作品の数々にパリの人々は一夜にして『バレエ・リュス』の虜になります。
1910年 『火の鳥』初演
舞台美術家レオン・バクストによる火の鳥の衣装スケッチ。
レオン・バクストはバレエ・リュスの衣装や舞台美術を幅広く手掛け、成功を支えた。
出典:Wikimedia Commons
1910年、パリ・オペラ座にてミハイル・フォーキン振付の『火の鳥』が初演されます。作曲はイーゴリ・ストラヴィンスキーです。
この『火の鳥』は、バレエ・リュス初のオリジナル作品であり、のちに『ペトルーシュカ』『春の祭典』とあわせてストラヴィンスキー三大バレエと呼ばれます。
ロシア民話を元にした作品で、火の鳥を救った王子が火の鳥の魔法によって美しい王女と結ばれるストーリーです。
ディアギレフは、主役である火の鳥を人気ダンサーのアンナ・パブロワに踊らせようとしたものの、パブロワが「こんな雑音のような音楽では踊りたくない」と拒否したエピソードが有名です。
バレエ・リュスの人気作品として1921年まで毎シーズン上演されました。
1911年 『薔薇の精』初演
薔薇の精の衣装を着たニジンスキー。衣装デザインはレオン・バクスト
出典:Wikimedia Commons
1911年には、ニジンスキーを伝説にした『薔薇の精』が上演されます。
この1911年は元々オフシーズンのみの一時的なカンパニーであった「バレエ・リュス」が年間を通じて公演を行うバレエ団として確立した年でもあります。
1911年初演の『薔薇の精』は、フランスの詩人 テオフィル・ゴーティエの詩の一節がもとになった作品で、ゴーティエ生誕100周年を記念して制作されました。
ちなみに、ゴーティエは現存する最古のクラシックバレエ『ジゼル』の台本を書いたことでも有名です。
『ジゼル』についてもっと詳しく!
ストーリーは、舞踏会から帰ってきた少女が夢の中で薔薇の精と踊るというもの。
ニジンスキーの脅威的な跳躍力、男女を超越した中性的な魅力で大ヒットとなりました。
現在でも、マリインスキーバレエ団などで上演されています。
1912年 『牧神の午後』初演
1912年は、その革新的な解釈と動きでスキャンダルにもなった『牧神の午後』の初演が行われます。ニジンスキーの振付家デビュー作です。
物語の主人公は一人の牧神。牧神がとある美しいニンフに求愛するも逃げられてしまいます。ニンフが残したヴェールを手に、岩場で牧神が欲情するのをラストに物語は幕を閉じます。
官能的なラストシーンは観客は騒然となり、『薔薇の精』ですさまじい跳躍を見せたニジンスキーが小川を跳び越えるほどの小さなジャンプしかしなかったことも大きな反響を呼ぶひとつの原因となりました。
ディアギレフは『牧神の午後』のリハーサルを見た際、観客に受け入れられにくいとは感じたものの、興業として話題性があると考え、上演許可を出したと言われています。
ディアギレフの考え通り、『牧神の午後』は賛否両論を受け、話題性抜群。その後の公演は完売が続きました。
1913年 『春の祭典』初演、ニジンスキー解雇
1913年の出来事として特筆すべきは『春の祭典』初演とニジンスキー解雇でしょう。
『春の祭典』は、ストラヴィンスキー作曲、ニジンスキー振付の作品です。
ストラヴィンスキーの不協和音とも言える革新的な音楽と、バレエの基本的技法「アンドゥオール」を否定し、内股のポーズを取るなどかなり独特な振付に、『牧神の午後』同様、観客は騒然となりました。理解不能として観客をパニックに陥らせたとも言われています。
当時の観客には『春の祭典』は受け入れられず、わずか10回にも満たない上演で終わりました。1920年のレオニード・マシーン振付による再演まで、バレエ・リュスのレパートリーから消えていたほどです。
1913年の後半には、もう一つ衝撃的なことが起こります。
当時ディアギレフの恋人であったニジンスキー(ディアギレフは同性愛者であった)が、南米ツアー中、団員のロモラ・ド・プルスキーと突然結婚してしまったのです。
そして、ある晩の出演を理由なくキャンセルしてしまいます。これはバレエ団において最も重い契約違反でした。
その知らせを聞いたディアギレフは、電報で「南米ツアーが終了後、即刻バレエ・リュスを解雇する」とニジンスキーに言い渡しました。
なお、『春の祭典』はそのスキャンダル性からチケットは即完売し、当時の観客に受け入れられたものの、ニジンスキーの結婚騒動やニジンスキーの前衛路線を打ち切ろうと考えたディアギレフの判断により、わずかな上演回数で打ち切られたとする説もあります。
『春の祭典/牧神の午後』についてもっと詳しく!
1914年 新たなスター レオニード・マシーンの発掘
ニジンスキーの解雇により、ディアギレフは恋人を失うとともに、バレエ・リュスのスターダンサー・振付家を失いました。
そこで、新たなスターダンサーを発掘すべく、祖国ロシアへと渡ります。このときに発掘されたのが、ボリショイ劇場で踊っていたレオニード・マシーンでした。
レオニード・マシーンの経歴などについては、後ほど詳しく紹介します。
1915年〜1928年 戦争の影響、ジョージ・バランシンの入団など
1915年には、先に始まった第一次世界大戦の戦火から逃れるため、ディアギレフはスイスに家を借ります。ダンサーらも集まり、亡命生活を送りました。
この大戦によってロシア内の社会構造が変わり、バレエ・リュスを支えるパトロン・パトロネスの顔ぶれが貴族から鉄道王や鋼鉄王など実業家に変わったことは、ディアギレフを悩ませました。
これら実業家のパトロンらは、「金も出すが口も出す」というスタンスで、配役などにもしばしば文句をつけたからです。
第一次世界大戦後の1921年、ディアギレフはロンドンでロシア帝室バレエの傑作『眠れる森の美女』を上演します。バレエ・リュスの最初で最後の全幕作品であり、衣装や美術の制作費を惜しまず、贅を尽くしたものでした。
この『眠れる森の美女』の上演は、ディアギレフのロシアバレエへの愛着、祖国への信念を貫いた結果であったと言われています。
1924年には、のちに「アメリカのバレエの父」と呼ばれるジョルジュ(ジョージ)・バランシンが入団し、『ミューズを導くアポロ』『舞踏会』『放蕩息子』などの振付を手がけました。
1929年 ディアギレフ死去 バレエ・リュス解散
1929年8月1日、ディアギレフは持病の糖尿病が悪化し、ヴェネツィアの地で亡くなりました。
9月には、ディアギレフの死を持ってバレエ・リュスを解散することが、バレエ・リュスのバレエマスター(ダンサーを指導する人)であったセルジュ・グリゴリエフからダンサーらに告げられました。
解散後の団体については「8. バレエ・リュスの後継団体」で紹介します。
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