ミラン・クンデラ『邂逅─クンデラ文学・芸術論集』×ヤナーチェク 小説を彩るクラシック#10
ミラン・クンデラ
『邂逅──クンデラ文学・芸術論集』
ミラン・クンデラは旧チェコスロバキアに生まれ、1963年の短編集『微笑を誘う愛の物語』から作家としての活動を本格化させ、長編『冗談』でチェコを代表する作家となります。
スターリン没後、変化する社会の中で言論・表現の自由を求めるなど政治に関わるようになったクンデラは、1968年以後、自国での活動制限、小説の発禁処分を受けて、1975年にはフランスへ亡命。
国籍を取得し、母国語ではなくフランス語で執筆を始めてからも、『存在の耐えられない軽さ』、『笑いと忘却の書』、『不滅』などの傑作を生み、現在ではノーベル文学賞に最も近い作家と目されています。
クンデラの父、ルドヴィークは著名なピアニストで、師は作曲家のレオシュ・ヤナーチェク。
クンデラは父から音楽の教育を受け、プラハの音楽芸術大学を卒業します。その音楽的素養はクンデラの小説に表れており、自身の書く小説には作品番号を振り(op.1は『冗談』)、『笑いと忘却の書』を、「これは変奏形式の小説だ」と呼ぶなど、音楽家に倣ったスタイルを用いています。
クンデラの作家活動の中核を成すのは小説ですが、戯曲、評論の分野でも高い評価を得ています。
『邂逅』
『邂逅──クンデラ文学・芸術論集』は、ミラン・クンデラが八十歳になる歳に発表された評論集です。
評論の対象となるのは主に文学なのですが、ベートーヴェン、ヤニス・クセナキス、シェーンベルク、ヤナーチェクなどの音楽家についても熱意をこめて論じています。
とくにヤナーチェクに対しては自身と結び合わせるかのように、ある種のシンパシーをもって書いています。
レオシュ・ヤナーチェク
ヤナーチェクの死後1年後、クンデラは誕生します。クンデラの父はヤナーチェクの高弟であり、生徒もたくさんいたので、父やその生徒たちが弾くヤナーチェクを聴きながら育ったといいます。
父が亡くなったときには、あらゆる弔辞を遠慮してもらい、4人の音楽家によるヤナーチェクの弦楽四重奏曲第二番を演奏してもらうなど、クンデラ家にとっての「精神」と呼べる作曲家だったようです。
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片足の大走行
ヤナーチェクといえば「民族的」、「伝統的」というイメージがありますが、クンデラはそのイメージを真っ向から否定します。
「彼はいったい何者だったのか? プラハの傲慢な音楽家たちが頑固に言い張っていたように、素朴にも民謡に取りつかれた田舎者だったのだろうか? それとも現代音楽の巨匠のひとりだったのか? もしそうだとすれば、どんな現代音楽なのか? 彼は知られているどんな運動にも、グループにも、流派にも属していなかった! 彼は異色で孤独だった」
小説では比較的ドライな文体が持ち味のクンデラですが、ヤナーチェクのことになると、まるで身内を擁護するかように言葉が熱を帯びていきます。
ヤナーチェクの死後80年経った現在、ラルース百科事典に載っている、ヤナーチェクの項を読むとこんな風に評されていたそうです。
「彼は体系的に民謡を収集することを企て、民謡の活力が彼の全作品と全政治思想に糧をあたえた」
それに対してクンデラは、
こんな文言から浮かび上がる、およそありそうもない愚か者の姿を想像してもらいたい!
と吐き捨て、
「本質的に国民的かつ民族的」という項目に対しては、
つまり、現代音楽の国際的コンテクストの外にあるということだ!
と言い放ち、
「社会主義のイデオロギーがしみついている」という文言には、ナンセンスと一蹴します。
つまり、現在のヤナーチェク評はまったくの誤解でナンセンスだ、とクンデラは言っているわけです。
では、ミラン・クンデラにとってのヤナーチェクとはいったいどんな音楽家なのでしょう。
彼は、真のヤナーチェクをピエール・ブーレーズが指揮する2003年に行われたパリのコンサートに見出します。
『カプリッチョ』、『シンフォニエッタ』、『グラゴル・ミサ』の三曲を指揮したブーレーズに対してクンデラは、「これほどヤナーチェク的なヤナーチェクは聴いたことはない」と讃え「”彼本来の無遠慮な明晰さ”と”反ロマン主義的な表現性”と”荒々しい現代性”があった」と昂奮をもって語ります。
「素朴」や「伝統的」と言ったものと真逆の意見を述べるクンデラですが、それは彼が長い間「チェコ出身の亡命作家」というレッテルを貼られていたからかもしれません。
芸術は「歴史(証言)」や「政治(プロパガンダ)」といったカテゴリーで語るものではなく、その「作品」で語るべきなんだ、何かを題材にすることはあっても、それは本質的なことではないんだ、と言っているような気がします。
それは、クンデラの芸術に対する揺るぎのない「信頼」といえるかもしれません。
参考文献
ミラン・クンデラ(2020年)『邂逅──クンデラ文学・芸術論集』西永良成訳 河出文庫
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