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動乱の時代のロシア、ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』〜あらすじや曲を紹介〜

目次

オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』と歴史

オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』は、ロシアの大詩人アレクサンドル・プーシキン(1799-1837)が1831年に出版した同名の戯曲を元にしていますが、ムソルグスキー自身が歴史を研究し自作の場面を追加するなどして作り上げた台本です。
ロシアで一般に知られている歴史が物語の土台となっているため、知っていると知らないとではオペラへの理解が全く異なります。

『ボリス・ゴドゥノフ』の背景にある歴史を知って、オペラをより楽しみましょう!

オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』以前の出来事

「イヴァン雷帝と皇子イヴァン」イリヤ・レーピン画
出典:Wikimedia Commons

モスクワ大公国と呼ばれていた中世のロシアで1584年、イヴァン4世(1530-1584)が没します。通称「イヴァン雷帝」は領土を拡大し強固な専制国家を築きましたが、「雷帝」という通称からも分かるようにロシア史上最大の暴君でもありました。あまりに苛烈な性格で、1581年に後継者の息子イヴァンを殴り殺してしまいます。
イヴァン雷帝の死後、残された息子は2人。最初の妻との間に生まれた虚弱な27歳のフョードルと、7番目の妻との間に産まれた2歳のドミトリーで、フョードルがフョードル1世(1557-1598、在位1584-1598)としてツァーリに即位します。

ボリス・ゴドゥノフはモンゴル系タタールの出身でしたが、イヴァン雷帝に目をかけられて出世し、妹のイリーナはフョードル1世の妻となっていました。ツァーリの義兄であるボリスは、摂政として政治を取り仕切ります。

1598年、フョードル1世崩御。子どももなく後継者の指名もなかったため、ツァーリの位に空白が生じました。ロシア全階級の代表者が参加する「全国会議」はボリス・ゴドゥノフを新ツァーリとする決定を採択し、ロシア正教会総主教が貴族や民衆を引き連れボリスにツァーリ就任を請願します。

これが、オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』のプロローグの場面です。

請願行進を受け入れる形で、ボリスは新ツァーリに就任。ロシア建国以来700年続いたリューリク王朝が途絶え、王朝の血を引かない君主が誕生した瞬間でした。

ドミトリー皇子と偽ドミトリー

「敬虔なる皇子ウグリチのドミトリー」ミハイル・ネステロフ画
出典:Wikimedia Commons

イヴァン雷帝の息子、ドミトリー皇子(1582-1591)は幼かった上に、当時の教会法では正当な皇位継承権はありませんでした。とはいえリューリク朝の血を引く皇子として、その存在は権力闘争に利用され続けます。

フョードル1世即位直後、ドミトリー皇子をツァーリに擁立する暴動が起きたため、ボリス・ゴドゥノフは皇子と親族をウグリチに追いやりました。1591年、首を刃物で切られ死んでいるドミトリー皇子が発見されます。ボリスは、ヴァシリー・シュイスキー公爵の調査団をウグリチに派遣。その調書によると、ナイフ遊びの最中にてんかんの発作に襲われ、自分の首をナイフで突いてしまったというものでした。

現在も事故死説が有力視されていますが、結果的にドミトリー皇子一族の勢力が抑圧され、ボリスが帝位に就くのに好都合な状況となりました。そのため、事件当時からボリスによる暗殺説がささやかれていました。

「ポーランド王ジグムント3世に忠誠をちかう偽ドミトリー」
ニコライ・ネブレフ画 出典:Wikimedia Commons

フョードル1世の跡を継ぎツァーリとなったボリスは、名門貴族を排除する政策を継承し農民の犠牲を顧みなかったので、貴族と農民の反感を買いました。さらに、1601~1604年の3年間は大飢饉に襲われ、民心が離反。ボリスへの不満が高まっていきました。

そんな中現れたのが「偽ドミトリー(僭称者)」です。1603年、イヴァン雷帝の末子ドミトリーと名乗る人物がポーランドに現れます。ロシアへの介入を狙っていたポーランド貴族やカトリック教会は、特に調査もせず偽ドミトリーを信用しました。
偽ドミトリーがポーランドで進軍の準備をしていることを知ったボリスは、「偽ドミトリーはモスクワの修道院から逃走した修道僧、グリゴリー・オトレピエフである」とポーランドに書簡を送っています。

偽ドミトリーはポーランド国王の後ろ盾を得て1604年、モスクワに向けて出陣。モスクワ軍と偽ドミトリー軍の交戦が続いていた1605年4月13日、ボリスが急死します。モスクワ軍は敗退し同年5月、偽ドミトリーがモスクワを制覇しました。

オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』、後の出来事

「弟フョードル2世を偽ドミトリーに殺されたクセーニヤ」
コンスタンチン・マコフスキー画 出典:Wikimedia Commons

ボリス・ゴドゥノフが急死したため、彼の息子が跡を継いでフョードル2世に即位。フョードル2世は、即位後2カ月にもならないうちに偽ドミトリーに攻め入られ、母親とともに処刑されます。姉のクセーニヤは偽ドミトリーの妾にされた後、修道院に追放されました。

新ツァーリとなった偽ドミトリーですが、カトリック教徒でポーランド人ばかりを優遇したことから、ロシア正教の貴族の反感を招き1年も経たないうちに暗殺されます。
その後、名門貴族のヴァシリー・シュイスキー(1552-1612)が、ヴァシリー4世(在位1606-1610)として即位。しかし、第2の偽ドミトリーの出現など国情不安が止まず、1610年に退位。モスクワ公国はポーランドの支配下におちます。

1612年にロシア義勇兵が立ち上がりポーランドの支配から解放すると、翌年にリューリク王朝の血筋につながるミハイル・ロマノフ(1596-1645、在位1613-1645)が新ツァーリとなり、以後300年余り続くロマノフ王朝が誕生します。

「聖愚者」とは?

歴史画「大貴族モロゾヴァ」ワシーリー・スリコフ画
雪の上にはだしで座る聖愚者が右下に描かれている
出典:Wikimedia Commons

オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』に登場する、「聖愚者」(白痴ともいう)とは何者でしょうか?物語の要所に現れ、核心的な言葉を発して衝撃を与える、劇中の不思議な存在です。

「聖愚者」はロシア正教会独特の存在で、雪の日も裸同然、はだしで徘徊し、人前では常に精神異常のような行動、発言をします。そして、夜になって一人になると、ひそかに神に祈ります。

「キリストのゆえに愚かなものとなり」という聖書の精神と、狂人をよそおえば俗世にいながら完全に孤立した状態で修行ができるという考えによるものです。
聖愚者は人々からあがめられる存在です。聖愚者は時に、ツァーリを告発することがありましたが、イヴァン雷帝でさえも聖愚者に手出しはできませんでした。

オペラで聖愚者が登場するシーンは、第4幕冒頭の聖堂前広場。ここでは、「幼い皇子を斬り殺した」とボリス・ゴドゥノフの罪を告発しています。もう一つはオペラ終幕のクロームイ近郊の森。ムソルグスキーの完全な独創シーンであり、ストーリー上、最も印象的な場面です。一人残された聖愚者は、狂人の仮面を取って祈ります。

流れよ、流れよ、苦い涙
泣け、泣くが良い、正教徒の魂よ!
すぐ敵がやって来て、また闇が訪れようぞ
漆黒の闇、何も見えぬ暗闇が
苦しみだ、これぞロシアの苦しみ!
泣け、泣くが良いロシアの民よ!
飢えたる民よ!


「歌劇『ボリス・ゴドゥノフ』全曲、クラウディオ・アバド指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団、1993年収録CD付属対訳」、一柳富美子訳


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神保 智 じんぼ ちえ 桐朋学園大学音楽学部カレッジ・ディプロマ・コース声楽科在学中。子どものころから合唱団で歌っていた歌好き。現在は音楽大学で大好きなオペラやドイツリートを勉強中。

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