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動乱の時代のロシア、ムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』〜あらすじや曲を紹介〜

目次

モデスト・ムソルグスキー
~早すぎたロシアの異才~

「作曲家モデスト・ムソルグスキーの肖像」
イリヤ・レーピン画、1881年 
出典:Wikimedia Commons

作曲家モデスト・ムソルグスキーは、ロシアの由緒ある家柄の大地主の家に生まれながら、貧困と精神不安によるアルコール中毒に苦しみました。この肖像画は、親友の画家イリヤ・レーピン(1844-1930)が、ムソルグスキーの葬儀代を工面するため描いたと言われています。

ムソルグスキー家の没落は1861年、ロマノフ朝アレクサンドル2世が発布した「農奴解放令」に端を発します。当時、クリミヤ戦争敗退や農民の蜂起で、社会不満は爆発寸前にありました。ムソルグスキー家はこの政令に従い、農民に積極的に土地を貸し与え、経済的に大打撃を受けます。しかし、モデスト・ムソルグスキーは、むしろこの不幸を快く受け入れました。祖母が農奴出身であったため、農民に深い共感を抱いていたのです。

モデスト・ムソルグスキーの略歴

[1839年 0歳]
3月21日、ロシアのプスコフ県カレーヴォに生まれる、リューリク朝一族の血を引く大地主。

[1849年 10歳]
サンクトペテルブルクのエリート養成機関ペトロパヴロフスク学校に入学。

[1852年 13歳]
近衛士官学校入学。ピアノ曲『騎手のポルカ』、父により自費出版。

[1856年 17歳]
近衛士官学校卒業、近衛連隊入隊。軍医だったボロディンと知り合う。

[1857年 18歳]
バラキレフに弟子入り。本格的に音楽の勉強を始める。

[1858年 19歳]
精神不安定になり、近衛連隊退役。

[1860年 21歳]
ロシア音楽協会定期演奏会で『スケルツォ変ロ長調』初演

[1861年 22歳]
農奴解放令により一家は経済的打撃に。故郷に帰り家族を助けながら作曲を続ける。

[1863年 24歳]
サンクトペテルブルグで運輸省中央技術局に就職。友人らと共同生活を始める。

[1865年 26歳]
母の死、アルコール依存症が始まり兄夫婦と同居。批判的リアリズムの歌曲を作曲し始める。

[1867年 28歳]
役所を解雇される。『禿山の一夜』初稿完成。

[1868年 29歳]
国有財産省林野局へ再就職。オペラ『結婚』に取り掛かるも未完。オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』制作開始。

[1869年 30歳]
オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』完成。

[1871年 32歳]
オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』がマリインスキー劇場委員会から上演拒否され改訂に着手。リムスキー=コルサコフと同居を始める。

[1872年 33歳]
オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』の改訂完了。『禿山の一夜』第2稿。オペラ『ホヴァンシナ』の作曲に取り掛かるも未完。

[1873年 34歳]
歌曲集『子ども部屋』をリストが注目。7等文官に昇進。友人の建築家兼画家、ハルトマン急死。

[1874年 35歳]
2月27日、マリインスキー劇場で改訂版オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』全幕上演。ハルトマンの遺作展から、ピアノ組曲『展覧会の絵』完成。オペラ『ソローチンツィの定期市』作成に取り掛かるも未完。

[1875年 36歳]
林野局課長に昇進。歌曲伴奏者として活躍。

[1880年 41歳]
健康上の理由により役所を退職。

[1881年 42歳]
アルコール依存と脳卒中で陸軍病院に入院。3月14~17日、画家イリヤ・レーピンが肖像画作成。同28日、病院で死去。


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神保 智 じんぼ ちえ 桐朋学園大学音楽学部カレッジ・ディプロマ・コース声楽科在学中。子どものころから合唱団で歌っていた歌好き。現在は音楽大学で大好きなオペラやドイツリートを勉強中。

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