見どころ満載のファンタジック・オペラ、オッフェンバックの『ホフマン物語』~あらすじや曲を紹介~
オペラ『ホフマン物語』これまでの版の経緯
リング劇場1881年火災の様子 出典:Wikimedia Commons
オペラ『ホフマン物語』は、幕の順番が違ったり、歌う曲が異なっていたり、現在もさまざまなバージョンで上演しています。
その原因は、作曲家の死後に『ホフマン物語』がたどった複雑な運命にあります。
一つは、作品が未完のままオッフェンバックが死去し、作曲家自身が生前に加えた改変や加筆も多数あったため、決定版が判別し難いこと。さらには、1881年に初演を手がけたパリのオペラ・コミック座とウィーンのリング劇場がともに火災に見舞われ、重要な資料が焼失したとみられたことです。
オッフェンバックによる初演(1879年)
オッフェンバックは生前の1879年5月18日、オペラ『ホフマン物語』を披露しています。抜粋による試演会の形式で、自宅の大広間に300人近い関係者を招きました。このオペラの上演契約をすでに結んでいたリング劇場支配人のほか、オペラ・コミック座の支配人レオン・カルヴァロ(1825–1897)も同席していました。
この時披露したのは、第1幕ホフマンの「クラインザックの歌」、第2幕コッペリウスの「目玉の三重唱」、第3幕アントニアの「逃げてしまった、雉鳥は」、第4幕「ホフマンの舟歌」、終幕の合唱などの9曲。
オペラ・コミック座は数日後に、同劇場での上演を申し出ます。ただし、オペラ・コミック座の慣例によりレチタティーヴォ(歌による語り)をセリフに置き換え、歌手に合わせて音域の変更などを要求しました。オッフェンバックはこれに応えて手直ししましたが、完成目前に他界。オッフェンバックの家族の依頼により、未完部分を作曲家エルネスト・ギロー(1837-1892)が補筆しました。
悪魔の呪い?初演劇場の火災
1881年オペラ・コミック座初演の様子。右から、ホフマン(ジャン=アレクサンドル・タラザック)、ミラクル博士(エミール=アレクサンドル・タスカン)、ニクラウス(マルグリット・ウガルド)、中央下アントニア(アデール・イザーク、兼オランピア)出典:Wikimedia Commons
オッフェンバック死去の翌年、オペラ『ホフマン物語』はオペラ・コミック座(パリ)とリング座(ウィーン)で、それぞれ初演しました。しかし両劇場はその後、大火災に遭っています。そのため、『ホフマン物語』は呪われたオペラだとの迷信まで生まれました。
1881年2月10日、オペラ・コミック座での初演は大成功を収めます。しかし初演の10日前、未完の問題や長すぎるなどの理由で、第4幕(ジュリエッタ)をカットしてしまいました。そのため、第4幕冒頭の「ホフマンの舟歌」を第3幕(アントニア)に挿入。それに伴い、アントニアの舞台をミュンヘンからヴェネチアに変更しました。さらにニクラウスとミューズを別々の歌手が担当したため同一人物であることが分からなくなり、物語全体の整合性が失われるような改悪でした。
オペラ・コミック座1887年の火災 出典:Wikimedia Commons(英語版)
初演から6年後の1887年5月25日、オペラ・コミック座は火災で全焼。オペラ『ホフマン物語』のほとんどのスコアが焼失したと見なされました。
リング劇場1881年火災の様子、出典:Wikimedia Commons
一方、リング劇場は1881年12月7日、ギローによるレチタティーヴォ版ドイツ語訳の『ホフマン物語』を初演。こちらも大成功を収めましたが、その翌日、2回目上演の際にガス爆発を起こして劇場が全焼。数百人もの死者を出し、劇場支配人は逮捕され自殺に追い込まれました。以降しばらくの間、ウィーンでオペラ『ホフマン物語』が上演されることはありませんでした。
この時のリング劇場の火災は人々に衝撃を与え、ウィーン・オペレッタの衰退の一因にもなります。ヨハン・シュトラウス2世(1825-1899)は1887年、この事故を教訓にしてウィーンに組織された志願救急隊をたたえる行進曲を作曲しました。
近年も新たな資料発見!
オペラ『ホフマン物語』の1907年の台本、出典:Wikimedia Commons
初演劇場の火災で楽譜など重要な資料が失われたと考えられていたため、オペラ『ホフマン物語』の本来の姿を推測することが困難になっていました。しかしその後、手稿や検閲用資料などが次々と発見され、2000年代に入っても新たな版が発表されています。
シューダンス版(1907年)
1907年にシューダンス社が出版した「シューダンス版」は、長く定本として用いられたスコアです。オランピア、ジュリエッタ、アントニアの順で、ミューズはエピローグで初めて登場する設定になっています。
エーザー版(1977年)
1977年、音楽学者フリッツ・エーザーが出版した「エーザー版」は、オランピア、アントニア、ジュリエッタの順に改められ、ミューズはプロローグから登場。さらにオッフェンバックの手稿に基づき、多くの曲が復活しました。
ケイ版(1984年),ケック版(1993年)
1984年、音楽学者マイケル・ケイが約300ページの譜面を発見し「ケイ版」を発表。1993年、音楽学者ジャン=クリストフ・ケックが、新たに発見した検閲用台本や第4幕のオーケストラ譜を含めて「ケック版」を発表。
ケイ&ケック版(2005年)
2004年、オペラ・コミック座の火災で焼失したと思われていた初演時の手書き譜を、パリ国立オペラ資料倉庫で発見。ケイとケックの協力で、新たに「ケイ&ケック版」が2005年に出版されました。
現在はその時々の意向により、旧版を選択したり折衷したりして上演することが多いようです。
また、他者の作と分かっていても根強い人気があるため、演奏され続けている楽曲があります。
例えば、第4幕のダペルトゥットのアリア。
オッフェンバックの作品は「まわれ、まわれ、鏡よ!」ですが、1904年にモンテカルロ歌劇場支配人ガンズブールが補強した「きらめけ、ダイヤモンド」が今も歌われます。
「きらめけ、ダイヤモンド」|Scintille diamant
ブリン・ターフェル、パリ・オペラ座、ヘスス・ロペス=コボス指揮、2002年
「まわれ、まわれ、鏡よ!」|Tourne, tourne, miroir
ホセ・ファン・ダム、国立リヨン歌劇場、ケント・ナガノ指揮、1996年
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