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ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト|Wolfgang Amadeus Mozart

2 音楽史における位置と特徴

2.1 サリエリとヴォルフガング

音楽史上でヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトといえばアントリオ・サリエリ(1750-1825)の存在は避けて通れないであろう。

最も有名なのが映画『アマデウス(1984)』である。この映画ではサリエリがヴォルフガングを憎んでいるように描かれ、1820年代には「ヴォルフガングを毒殺したのはサリエリだ」という噂まで立つほどであった。

しかし実際にはそのような証拠は特段残されておらず、またヴォルフガングの末子フランツ・クサーヴァー・モーツァルト(1791-1844)はサリエリによる父の毒殺を否定している。当時は、イタリア派の音楽家とドイツ派の音楽家が対立しており、その中でウィーン宮廷楽長を独占し続けてきたサリエリがターゲットとなり、様々な噂が飛び交ったと言われている。

サリエリの経歴を見ると、幼少期からチェンバロや声楽、ヴァイオリンなどの音楽教育を受け、ウィーンの宮廷へ入り、1744年に宮廷作曲家、1788年に宮廷楽長となった。ヴォルフガングのミサ曲を演奏したり、『魔笛』を高く評価したり、さらにはヴォルフガングの遺作『レクイエム』を初演したりと、憎むというよりはヴォルフガングの良きライバルといった存在だったのではなかろうか。

何より、ヴォルフガングの弟子的存在であったジュスマイヤー、息子のフランツ・クサーヴァーに音楽指導を行ったとされている。その一方で、ヴォルフガングは「サリエリが自分の邪魔をするせいで高い位置にいけない」と主張していたそうである。

2.2 ドイツ語オペラの制作とトルコ軍楽

当時、オペラ作品と言えばヨーロッパでの主流はイタリア・オペラで、それ以外の各国の宮廷では、ウィーンではアントニオ・サリエリ、フランスではジャン=バッティスト・リュリ(1632-1687)らが活躍していた。

そのような中で、オーストリア皇帝ヨーゼフ2世(1741-1790)がドイツ語のオペラを作ろうと推奨していた時期がある。ドイツ語のオペラを作って人々の愛国心を生み、自国民による国家を作るという思惑は軍人らしい考えと言えよう(彼の母マリア・テレジアはヨーゼフ2世を軍人として育てた)。

モーツァルトもヨーゼフ2世からの依頼でいくつかのオペラを作っている。例えば2018年に東京・日生劇場で近年上演された、1782年初演のドイツ語オペラ『後宮からの逃走(KV.384)』、またコンサートでソプラノが作中のアリア『安らかにお休みください』を演奏することがある、ジングシュピール『ツァイーデ<未完>(KV.344)』などがある。

ちなみに丁度この頃、1787年はオーストリアとオスマン・トルコが本格的に戦争をしていた(それもあってか、上記の『後宮からの~』『ツァイーデ』の舞台はトルコである)。トルコ軍とはそれ以前の16世紀から何度も攻防を繰り返していた。そんなオスマン・トルコも、途中で戦争より外交だと外交使節を派遣するようになり、そこへ付いてきたのが軍楽隊である。

外交使節がやってくるたびに運んでくるオリエンタルな音楽が次第にはやり始め、作曲家たちにも影響を与えた。ヴォルフガングでいえば前述のオペラ『後宮からの逃走』の舞台はトルコであるし、“トルコ行進曲“として名をはせる『ピアノ・ソナタ 第11番 イ長調 第3楽章』からもその影響は垣間見られるであろう。

2.3 最終的な社会的地位

第1章では、ヴォルフガングの才能を売り込むために(あわよくばどこかの宮廷へ就職できないものかと)ヨーロッパ各地へ演奏旅行をしていたと紹介した。

この旅行を機にヴォルフガングが15歳の頃、オーストリア大公フェルディナント(1754-1806)がミラノ宮廷劇場で召し抱えたいと、母マリア・テレジアに相談した。しかし、テレジアはモーツァルト一家を、宮廷楽団員の役目を果たさず金儲けの為にヨーロッパを旅する「乞食」(父レオポルトはザルツブルク宮廷楽団の副楽長であった)と例え、暗に「他の使用人たちに悪影響だから雇うのは駄目」と言っている。
テレジアの崩御後、時を経てウィーン宮廷作曲家に任命されたことから、“女帝”の発する一声による就職活動への影響は少なからずあったのだと思われる。

母アンナ・マリアとのパリ滞在時に来たヴェルサイユ宮殿のオルガニスト(オルガニスト以上の地位を望むプライドの高さと、ヴェルサイユはパリ郊外のため都心部で活躍したい思いが強く断る。)、1787年にヨーゼフ2世からウィーン宮廷作曲家への任命などをされるも、最終的な身分は1791年任命の聖シュテファン大聖堂の副楽長であった。

2.4 独立、音楽家としての評価

女帝の影響、そして同時期に、ヨーロッパ旅行の為に取る休暇に寛大だったシュラッテンバッハからコロレドへと大司教が引き継がれると、それまでとはだいぶ様子が違っていった。

コロレド大司教は宮廷の財政再建の使命を担い、財政的理由から宮廷楽団の演奏回数、演奏時間の削減、大学制度の大幅な見直し、協会の改革などを行った。大学劇場は閉鎖、当然オペラの新作上演の話も持ち上がらず、無理解から器楽廃止の宣告まで出された。これにより、音楽家にとっては痛手を被る状態となり、なおかつザルツブルクにおける政治的・文化的伝統の根本的破壊が起こる事となる。

コロレド大司教の就任後、ヴォルフガングは有給の宮廷楽団楽士長に指名されしばらくは地位的に落ち着いたが、これまでに回ってきたヨーロッパ各地での日々の密度との落差に「こんなところで終わりたくない」と、父の反対を押し切って楽士長の座を辞め、ウィーンへと旅立った。1781年、25歳のことである。

当時の音楽家と言えば、宮廷楽団に仕える、いわばサラリーマンのような雇用が一般的であり、ウィーンに出てきたヴォルフガングが演奏会を開く、ピアノを教える、依頼を受けてオペラなどの作品を書くといった収入の得方は、現在のフリーランスに等しいものであった。

当時、ヴォルフガングの書く音楽は先鋭的であったため、一般的な評価を得られなかった。しかし一部の音楽家たちや聴衆の評価は高く、ウィーン時代では、ダ・ポンテ三部作と称されるオペラ『フィガロの結婚』『ドン・ジョヴァンニ』『コシ・ファン・トゥッテ』、『魔笛』、管弦楽曲の『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』などが書かれている。オペラと管弦楽曲の両方に数々の名曲と言われる作品を残している作曲家は他に類を見ない。

2.5 プラハとヴォルフガング

ヴォルフガングについて忘れてはいけないのが晩年によく訪れたプラハ(現・チェコ共和国)である。1786年12月にプラハで上演されたオペラ『フィガロの結婚』が大ヒットし、同時期に国立劇場で演奏された『交響曲第8番 ニ長調(KV.504)』は後に<プラハ>の名で親しまれるようになる。

友人にあてた手紙では「ここでは、みんなが《フィガロ》のことばかり話している」と書いており、『フィガロの結婚』第1幕からアリア”もう飛ぶまいぞ、恋の蝶々”をテーマにした変奏曲を即興した際の、民衆の熱狂ぶりは相当なものであったことがうかがえる。ヴォルフガングは自分の音楽を理解してくれる!と幸せを満喫したことであろう。

なぜ、プラハでここまでの大ヒットとなったか。それは社会情勢の反映である。プラハ──当時のチェコ共和国はハプスブルグ帝国の支配下であり、支配者は当然ドイツ・オーストリア系の貴族で、公用語もドイツ語であった。『フィガロの結婚』は貴族を相手に女中や召使たちがひと泡ふかせる物語のため、ハプスブルグ帝国からの支配へ対する反感の念を晴らしてくれると歓迎されたのかもしれない。

自分の音楽を理解してくれたと喜ぶヴォルフガングは、その後『ドン・ジョヴァンニ』『皇帝ティートの慈悲』の2作もプラハで初演している。

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