森絵都『彼女のアリア J・S・バッハ〈ゴルトベルグ変奏曲〉より』~小説を彩るクラシック#26

二人の秘密・りえ子の想いのアリア

こうして出会った「ぼく」と藤谷は、週に一度旧校舎の元音楽室に集まって、お互いの不眠の悩みを相談し合うようになります。
彼女の不眠の原因は家庭の悩みでした。

「ママが若い男に走っちゃったの」
「パパはもうママと離婚して、OLの人と再婚したみたい」
「妹が、ショックで家出しちゃって……」
「お兄ちゃんはグレて眉毛剃っちゃうし……」

週に一度の会合で、藤谷は「ぼく」に、波乱万丈としかいいようのない家庭事情を話し、「ぼく」は驚き、あっけにとられてしまいます。
ぼくには藤谷家の家庭をどうすることもできないけれど、おなじ不眠症患者として彼女をはげますくらいはできる。
そう思っていた矢先に「ぼく」の不眠症が治ってしまいます。

どうしても不眠症が治ったことを彼女に告げられずに、「ぼく」は罪悪感をもったまま藤谷との会合を重ねていきます。
冬がやってきました。藤谷の話す話はどんどんエスカレートしていき、なんだか誇張があるんじゃないか? と感じるようになってきました。
ですが、語る藤谷は真剣そのもので、ひたむきに、一家のトラブルを「ぼく」に話します。
それは声の限りにアリア(独唱)をうたいあげるオペラ歌手のようでした。

やがて、藤谷の秘密が露わになり、「ぼく」たちは卒業式を迎えることになります。
「ぼく」が罪悪感を抱えていたように、藤谷も「ぼく」に対して抱えているものがあったのです。
このへんの森絵都の心理描写は見事です。まるでバッハの対位法のように、二人の関係性が絶妙に絡み合って若者特有の緊張感を生み出しています。

『彼女のアリア』は、旧校舎の元音楽室を舞台に、不眠症の少年と少女の心の揺れ動きを描いた淡い恋愛小説です。
若者は自分事として、大人の方は「あの時代」を思い出して、物語世界に浸ってみてください。
彼女のアリアに耳をすませてみましょう。「あの時代」特有の繊細な響きを感じとることができると思います。


参考文献
森絵都(1996年)『アーモンド入りチョコレートのワルツ』角川文庫


小説を彩るクラシック
森 絵都『子供は眠る』
森 絵都『アーモンド入りチョコレートのワルツ』
グレン・グールド×J.S.バッハ『ゴルトベルク変奏曲』


1982年、福島県生まれ。音楽、文学ライター。 十代から音楽活動を始め、クラシック、ジャズ、ロックを愛聴する。 杉並区在住。東京ヤクルトスワローズが好き。

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