森絵都『彼女のアリア J・S・バッハ〈ゴルトベルグ変奏曲〉より』~小説を彩るクラシック#26

J・S・バッハ『ゴルトベルグ変奏曲』

不眠症患者のために作られたと言われる『ゴルトベルク変奏曲(バッハ自身による表題は『2段鍵盤付きクラヴィチェンバロのためのアリアと種々の変奏』)』。
「ぼく」の母親は、あなたにも効果があれば、と『ゴルトベルグ』のCDを買い与えており、安眠効果はなかったけれど曲自体はとても気に入った「ぼく」は、この音楽集を眠れない夜のパートナーとしていました。

スローな子守歌のようなものを想像していたぼくは、初めてそれを聴いたとき、意外な曲調にとまどった。優しく眠りに導いていくようなメロディーでは、けっしてない。
むしろメロディーはあってないようなもので、この変奏曲を支えているのはテンポである。しっとりとうたうように流れていくのは、序曲のアリアだけ。
二曲目から始まる三十の変奏曲は、その多くがめまぐるしいほどハイテンポだ。音符と音符が複雑にからみあい、もつれあって生まれるフレーズが、つむじ風のように耳をすりぬけていく。
追いかけようにも、追いつかない。わざと聴き手をはぐらかし、逃げまわるような音律がこれでもか、これでもかと織りなされていく。

お気に入りの曲を目の前で弾く少女は、8曲を弾き終えて「ぼく」に「眠れないの?」と問いかけます。
彼女の名前は藤谷りえ子。一度も同じクラスになったことのない生徒でした。
「なんでわかるの?」と問う「ぼく」に対して「SOSって顔してる」と答え、この一言で「ぼく」は骨ぬきにされてしまい、彼女に不眠の悩みを打ち明けます。
熱心に耳を傾けてくれた彼女は「じつはあたしも不眠症なの」と「ぼく」に告げます。

1982年、福島県生まれ。音楽、文学ライター。 十代から音楽活動を始め、クラシック、ジャズ、ロックを愛聴する。 杉並区在住。東京ヤクルトスワローズが好き。

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