ジョゼフ・モーリス・ラヴェル|Joseph Maurice Ravel 1875-1937

ジョゼフ・モーリス・ラヴェル
Joseph Maurice Ravel

1875年3月7日-1937年12月28日
フランス共和国 バスク地方 シブール生まれ,パリ没

オーケストレーションの天才、音の魔術師モーリス・ラヴェルは、クロード・ドビュッシー(1862~1918)やエリック・サティ(1866~1925)と並んで近代フランスを代表する作曲家の一人であり、ピアノ曲『水の戯れ』、ピアノ曲および管弦楽曲『亡き王女のためのパヴァーヌ』、ピアノ曲および管弦楽組曲『マ・メール・ロワ』、バレエのための管弦楽曲『ダフニスとクロエ』、バレエのための管弦楽曲『ボレロ』など、今なお人気のある個性的な傑作を多数遺している。

作曲、編曲の依頼を抱え忙しかったこともあるが、決して筆が早い方ではなく、構想を練りつつも作品として未完のもの、作曲に至らなかったものがいくつもある。また、ラヴェル自身ピアノの腕が最高とまではいかないために、彼自身の手におえない自作品もあったようであるが、それらのエピソードは同時に彼の頭の中にいかに広大な素晴らしい音楽の世界が広がっていたかという証明でもある。

現在も、ラヴェル弾きと呼ばれたブラド・ペルルミュテール(1904~2002)やサンソン・フランソワ(1924~1970)などのピアノの名演はレコード、CDなどで聴くことができるし、管弦楽曲も世界中のオーケストラにより演奏されていて、ラヴェルの音楽は時代を越えて愛されている。

ラヴェルの生涯

生い立ち

1875年3月7日午後10時、母マリーの実家のある、フランス南西端部、スペイン国境に近いフランス領バスク地方のシブールという港町で、ジョゼフ・モーリス・ラヴェルは生を受ける。生後3ヶ月後には母に抱かれてパリに戻ることになるのだが(パリで3年後に弟のエドゥアールが生まれる)、スペイン北部を流れ出て大西洋のビスケー湾に注ぐニヴェル川を挟んだ、シブール対岸の町サン=ジャン=ド=リュズは海水浴場で有名な観光地で、ラヴェルは後年ここでたびたび休暇を過ごすことになる。

ラヴェルを溺愛した母マリー・ドルアールはバスク語が母語で、その母の愛情をたっぷり受けて育ったラヴェルが最初に口ずさんだ歌はバスク民謡だったと言われている。後年この母が亡くなった時、生涯独身を貫いたラヴェルは、無償の愛を失ったことで、大きな心理的ダメージを受けた。

ラヴェルの父ピエール・ジョゼフ・ラヴェルはスイスのジュネーヴ出身で、1868年にパリで蒸気三輪自動車の特許を取る程のエンジニアであったが、音楽好きで、芸術の素養があったようであり(弟であるラヴェルの叔父エドゥアールは画家として成功した)、裕福ではなくても生活に困ることはなく、ラヴェルが音楽教育を受けるのに十分な支援を惜しまなかった。

こうしてラヴェルは、普仏戦争(1870~1871)後の荒廃から、産業革命の進行により世界一の文化都市へと急速に立ち上がる、[ベル・エポック](良き時代)と呼ばれたパリの街で、愛情深い両親の元で成長していったのであった。

音楽教育

7歳の時ラヴェルは、父の希望により、ピアニスト、作曲家でありピアノ教師でもあったアンリ・ギス(1839~1908)の下でピアノを学び始める。そして12歳になると、それに加えて、シャルル・ルネ(生没年不明)から和声、対位法、作曲を習い、ピアノの習作を作曲するようになる。

さらに翌年1888年、13歳の年には、パリ国立高等音楽院(コンセルヴァトワール。※以下、パリ音楽院)のピアノ科受験準備のため、パリのシャルーレ塾に入り、そこで生涯の友となる後の名ピアニスト、リカルド・ビニェス(1875~1943)と出会う。そして1889年、パリ音楽院ピアノ科準備クラスの教授、エミール・デコンブ(1829~1912、ショパン最後の弟子と言われる)の門下生となり、ついに1889年、14歳の年にパリ音楽院のピアノ科予科クラスに入学する。ここから本格的にアカデミックな音楽教育を受けることとなる。

ちなみに、この1889年は、パリの街に300メートルのエッフェル塔が立てられ、第4回パリ万国博覧会が開催された特別な年であり、革命100周年ということも手伝って、パリ中が興奮に包まれていた。ラヴェルにとっても、大きく心を動かされ、その後の作曲家人生に大きな影響を与える、大切な音楽体験をする年になった。トロカデロ宮において開催されたロシア音楽のコンサートでは(当時パリではロシアクラシック音楽が大人気であった)、作曲者自身の指揮により演奏されたリムスキー・コルサコフの管弦楽を聴いて興奮し、また、ジャワ村の展示ではインドネシアのガムランを聴いて大きな衝撃を受けたのだ。

さて、少年時代からしっかりと音楽教育を受けてきたところに、両親の教育熱心さ、そして音楽芸術への理解が伺えるが、その分パリ音楽院でのラヴェルが優等生であったかというと、そうではなかった。ピアノ科でも和声クラスでも、決して良い評価を得ることはできなかった彼は、1895年、20歳の時、一時パリ音楽院から離れることになる。

同世代の音楽家たちとの出会い

1893年、18歳のラヴェルは、父ジョゼフの引き合わせにより、モンマルトルのカフェでサティと知り合った。そしてラヴェル自身も、パリ音楽院から離れた後、同じようにモンマルトルのカフェでピアニストとして働き、そこで常連だったドビュッシーとも知り合っている。

年長のドビュッシーとは後によく比較されるようになり、特にドビュッシーびいきの音楽批評家ピエール・ラロ(1866~1943、作曲家エドゥアール・ラロの息子)から二人の比較で常に酷評されていたために、時には背中を向けることもあったようだが、後に二人は互いに理解しあう関係になり(ただしドビュッシーの天才ラヴェルに対する思いは複雑なものがあったようである)、ドビュッシーの死後、追悼の『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』を書き、ドビュッシー作曲の『スティリー風タランテラ』と『サラバンド』のオーケストラ編曲もしている。

サティとは、その後ずっと近しく付き合っていたわけではないようだが、1911年、ラヴェルは、師匠のフォーレと共に立ち上げた『独立音楽協会』の演奏会で、『ジムノペディ』を含むサティの3作品を取り上げ、そこからサティが新しい音楽の先駆者として認められるようになる。ラヴェルはサティをとても敬愛していた。

生涯の師との出会い

1897年22歳の年に、ラヴェルは、何人もの優れた作曲家を育てることになるアンドレ・ジェダルジュ(1856~1926)に対位法とオーケストレーションの個人レッスンを受け、この指導が腑に落ちたラヴェルは、後にオーケストレーションの名手となる。

そして翌年、ラヴェルはもう一人の大切な師に出会う。23歳を目の前にした1月28日、ラヴェルはパリ音楽院作曲科に再入学し、ガブリエル・フォーレ(1845~1924)のクラスに入ったのだ。作曲についてはフォーレの指導を受け、対位法、フーガについてはその助手ジェダルジュの指導を受けるが、フォーレはパリ音楽院の外から入ってきた人物であり、ジェダルジュは規則でがんじがらめにするタイプではなく、二人のその型に縛られない教育がラヴェルを作曲家として花開かせたと思われる。

フォーレは当時、彼の師匠であるカミーユ・サン・サーンス(1835~1921)らが立ち上げたフランス音楽振興のための組織である【国民音楽協会】の執行部役員であり、そこではフランス人作曲家の新曲を積極的に取り上げ演奏する活動を行っていた。フォーレの後押しによってラヴェルは、その都度さまざまな批評がありつつも、次々に作品を発表する場を与えられ、それがラヴェルを作曲家として鍛えていくことになる。

また、フォーレは、自分の生徒たちをサロンに積極的に連れていき、上流社会の芸術擁護者たちに顔を売る後押しもしてくれた。例えば彼の代表作の一つである『亡き王女のためのパヴァーヌ』(ピアノ曲、1899)は、当時一番有名なサロンの女主人であったポリニャック大公妃に献呈された作品であり、人気曲として度々サロンで演奏され、その後出版されることとなったものである。

ローマ賞コンクール

ローマ賞は、1663年、時の国王ルイ14世により創設された建築、美術作品を対象にしたコンクールであり、音楽部門は1803年に新設された。審査は芸術アカデミー会員によって行われ、19世紀には、一流芸術家への登竜門として絶大な権威を誇っていた。

ラヴェルがこの大賞を目指した当時、フランス国籍を持つことと、コンクール開催年の1月1日に年齢が30歳未満であることが参加要件であり、ラヴェルは生涯5度この賞に挑戦したが、一度だけ3位を得たのみであった。

1905年、最後の受験となった5度目では予選さえ通らなかった。それはラヴェルが、わざわざ楽典の禁則を外れた作曲を行ったことが大きいと思われるが、審査に当たったアカデミー会員5名のうちの一人であり、当時のパリ音楽院の院長であった作曲家テオドール・デュボア(1837~1924)から、その型にはまらない作曲技法によって、ずっと目の敵にされていたためとも言われている。

これが世に言う[ラヴェル事件]というもので、当時のジャーナリズムを大きく賑わすこととなった。既にラヴェルが新進作曲家として世間から高い評価を得ていたこと、この年の本選に進んだ6名全員が審査員に名を連ねていたパリ音楽院作曲科のルヌヴー教授クラスの学生であったことから、ローマ賞の運営に音楽評論家、音楽学者たちの大きな批判を招き、結局デュボアは音楽院院長を辞め、その後任に師フォーレが就任することになる。

フォーレ自身は、パリ音楽院の出身でもなければ、ローマ大賞も取っておらず、それまでの保守的な音楽院の改革を進め、これによりフランスの音楽は先に進むことになったと言っても過言ではない。

独立音楽協会

夭逝の詩人アロイジウス・ベルトラン(1807~1841)の遺作詩集に触発されたピアノ曲集『夜のガスパール』が、親友のビニェスによる初演で好評を得た1909年、34歳のラヴェルは、現代音楽を発展させるための新しい組織【独立音楽協会】を立ち上げる。この後、それまで所属し、自身の作品演奏の機会を与えられてきた【国民音楽協会】は伝統を、新設の【独立音楽協会】は前衛芸術を掲げて、それぞれ活動することになる。

新しく立ち上げた【独立音楽協会】の会長にはフォーレが就任したが、彼は新旧両方の組織に属することになり、旧組織を脱退したラヴェルが新組織の中心人物として活躍することになった。

立ち上げ翌年、1910年の第1回コンサートでは、フォーレの歌曲集『イヴの歌』、ドビュッシーのピアノ曲『スケッチブックから』、そしてラヴェルのピアノ連弾曲『マ・メール・ロワ』の3つの新曲が演奏された。さらに翌年のコンサートでは、サティの劇音楽『星たちの息子』前奏曲、ピアノ曲『3つのサラバンド』第2番、ピアノ曲『ジムノペディ』第3番が取り上げられたのであった。

バレエ音楽

1909年、ロシア人のやり手興行師セルゲイ・ディアギレフ(1872~1929)が、男性プリマのヴァーツラフ・ニジンスキー(1890~1950)らを看板スターとして、パリのシャトレ座でバレエ・リュス(ロシアバレエ団)を立ち上げる。1910年シーズンに向けて、ロシア人新進作曲家イーゴリ・ストラヴィンスキー(1882~1971)に民話『火の鳥』を題材とするバレエ音楽を委嘱するが、そのためにパリを訪れたストラヴィンスキーは、ラヴェルや親友ビニェスたちが組んでいた前衛芸術グループ【アパッシュ】(ならず者)の仲間に加わり、ここにラヴェルとストラヴィンスキーの交友関係が始まる。

同時期、ラヴェルもディアギレフからバレエ音楽を委嘱されていたが、当時パリではロシア音楽とともに、ロシア人によるバレエが人気を得ていて、他のバレリーナからの委嘱作品が重なっていた。どのように優先順位をつけたかは不明であるが、古代ギリシャ抒情詩に題材を得た『ダフニスとクロエ』は、1909年に着手された後1912年にようやく完成、上演されることになる。

初演時には、同じプログラム内のドビュッシーの『牧神の午後への前奏曲』による『牧神の午後』がそのエロチックな表現によって話題となり、その陰にかすむ形となった。が、ラヴェルのオーケストレーションの素晴らしさ、音楽の美しさは皆の認めるところであり、その後も、ディアギレフと決裂する1920年までバレエ・リュスのために作曲し、また途中でバレエ・リュスを離れたニジンスキーからのオーケストラ編曲依頼も受けている。

そして、先の話にはなるが、バレエ・リュスから独立し自身のバレエ団を立ち上げた、女性バレリーナのイダ・ルビンシュタイン(1885~1960)のために、ラヴェルは1928年、53歳の年、問題作であり傑作、ラヴェル一番の代表作である『ボレロ』を作曲することになる。

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