ジョゼフ・モーリス・ラヴェル|Joseph Maurice Ravel 1875-1937

音楽史における位置と特徴

ピアノ曲、管弦楽曲(バレエ音楽を含む)、室内楽曲、歌曲、オペラなど、音楽の様々なジャンルに渡って作品を遺しているが、作曲家人生の前半では、ピアノ曲として作曲した自作品を後年になって管弦楽曲に編曲するというスタイルが基本で、バレエ音楽としてシューマン(1810~1856)やムソルグスキー(1839~1881)、ドビュッシーなどのピアノ曲のオーケストラ編曲も手掛けてきた。

しかし後半の20年程は、ピアノ独奏曲を書かず、新作としての管弦楽曲に力を注ぐようになり、そこには当時世界に急速に広がったジャズの影響なども色濃く見えるようになる。そのような意味において、フランス的なものの他に幼いころから母の影響により身に染み付いていたバスク的、スペイン的な要素に加えて、常に新しい目を持って、より高みを目指す意識が感じられる。

19世紀末のパリ音楽界

19世紀前半にヨーロッパを席巻したロマン主義は、古典主義の形式美から一つ殻を破り、人間の内面、感情を表現しようとするもので、複雑な和音やアーティキュレーションを使いより豊かな音楽を生み出すが、それまでのヨーロッパ音楽の中心地であるドイツ、イタリア、フランスより外の世界では、19世紀後半、それを民族性、土俗性の表現というものにまで反映させて、後に国民楽派と呼ばれるようなロマン主義の発展形を生み出す。

19世紀末のパリはヨーロッパ随一、世界随一の文化都市であり、ヨーロッパ中からたくさんの芸術家が集まっていた。そして、フランスとロシアは1894年、露仏同盟を結び、とても密な関係にあったため、19世紀後半に花を咲かせたロシア音楽がパリでブームとなっていた。ムソルグスキー、チャイコフスキー、リムスキー・コルサコフといったスターの音楽が頻繁に演奏されていたのだ。

これを一つの流れとすると、パリには、いや、ヨーロッパにはもう一つの流れがあった。

ヨーロッパの音楽中心地では、ドイツの楽劇王ワーグナーが時代を席巻しており、一つの大きな流れを作っていた。1883年、彼が亡くなった後も、その影響は音楽界を広く覆っており、次の時代を担う音楽家たちは、ポスト・ワーグナーの音楽を探っていたのである(ドビュッシーはその悩みを人一倍抱えていたと言われる)。

印象主義

20世紀に入る手前から、芸術の流れ、クラシック音楽の流れは、ヨーロッパを広く覆う全体的な流れから、個別に新しい音楽を追い求める流れに枝分かれしていく。

パリでは、19世紀後半に絵画を中心とした美術の分野で印象派と呼ばれる芸術運動が現れた。写実主義の主題を受け継ぎながらも、はっきりした輪郭や線を描くのではなく、絵筆で自由に絵具を置き、刻々と変化する光や空間を表現しようとした。そしてその想像の余地を残す曖昧な感じを音楽で表現したのが、ドビュッシーやラヴェルの音楽であった。そのような意味で、彼らの音楽は印象主義と評論されることになる。和音から調を決める3度の音を抜くことによる曖昧性、和音の動きに対してメロディの動きをずらすことによる不協和な進行など、確かに印象主義としての特徴を備えた音楽が生まれたのであった。

しかし、ドビュッシー自身は印象主義という評価を否定している。当時のフランス芸術は象徴主義の時代に入っており、主観による観念の表現を求めようとするその運動をドビュッシーも支持していて、自らは象徴主義音楽を掲げていた。当時のパリは、サロンにジャンルを超えた芸術家が集まっていて、象徴主義文学者たちと芸術論を交わし、彼らの詩に音楽をつけるのは当然の行為で、そのような意味では、象徴主義の音楽と言うことができるかもしれない。

では、ラヴェルの音楽はどのような位置付けをすればよいだろうか。

ラヴェルの音楽美学

ラヴェル自身は、評論家たちによる印象主義というレッテルを気にかけてはいないようであった(評論家たちからのドビュッシーとの比較は気にしていたようだが)。彼が意識していたのは、既にある価値観、方法をそのまま鵜呑みにしてそれにより音楽を作るのではなく、自分の見聞きしてきた経験に照らし合わせて、どうすることが一番良い音楽表現か、考え抜き、試行錯誤し続けることであった。作曲の筆が遅く、完璧主義と評されるのはそのためであるし、ピアノ曲を後日管弦楽編曲し、バレエ音楽編曲し、といった作業も、その試行錯誤し研ぎ澄ましていく方法の表れではなかっただろうか。

出来上がった音楽から表面的に感じられるのは、印象主義的な表現である。しかし、同時により良い音楽表現を求めるために、バロック、古典主義、ロマン主義の作品を徹底的に分析し、学び、自身の新しい創造に生かしていくというのがラヴェルのやり方であり、技術的な完璧さを常に追求するのがラヴェルの音楽美学であった。しっかり調性を持っていて、美しく確かなメロディーを持っているということから言えば、新ロマン主義とも言えそうだが、そもそもラヴェルにとって、何とか主義というカテゴリーに押し込められるのは、最も忌むべきことなのである。

ラヴェルが創作活動を続けている間に、オーストリアからはその後のクラシック音楽の大きな流れを導く十二音技法、無調性音楽を完成させたシェーンベルクが現れ、新大陸からはジャズなどの新しい音楽が全世界に広まり、パリではサティを敬愛する6人組が表舞台に立つようになり、ラヴェルはいつの間にか最先端の前衛作曲家ではなくなったが、次々に現れるそれらの新しい流れをも分析し、自分の音楽に生かしていったラヴェルは、理性的で情熱的な作曲家であった。

ラヴェルの目指す完璧さは、真実であれば他人に理解されなくてもよいという頑固なものではなかった。常に魅力を持って聴く人を退屈させずに引き付けるための技術の完璧さであった。こんな言葉が残っている。

「これまで私は自分の美学の原則を、他人のためであれ自分自身のためであれ、系統立てて述べる必要性を感じたことがなかった。もしそうしなければならなかったとしたら、私はこれに関してはモーツァルトの簡潔な意見を支持したいと言っただろう。モーツァルトは、音楽は、魅力をもち続け、つねに音楽であり続けるならば、あらゆることを試み、挑戦し、描くことができるとだけ語ったのだ。」

アービー・オレンシュタイン(2006)
『ラヴェル 生涯と作品』(井上さつき訳)
音楽之友社 p.155-156

ラヴェルは、時代の大きな流れの中にいながら、独自の音楽美学を貫いていたのである。

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