ジョゼフ・モーリス・ラヴェル|Joseph Maurice Ravel 1875-1937

第1次世界大戦

1914年6月28日、セルビアのサラエボを訪れていたオーストリア皇太子夫妻が暗殺される事件が起こる。これをきっかけに各国の思惑からヨーロッパは第1次世界大戦に突入するが、ラヴェルは母国の体験を自らの体験とするべきだという信念から、軍隊に志願する。そして志願前に慌ただしく抱えていた作曲と演奏会を済ませ、41歳の誕生日を迎えた数日後、前線近くで物資を輸送する輸送兵という任務に就いたのであった。

その頃、サン・サーンスらフランスの音楽家たち60名ほどが、フランス音楽防衛国民同盟を結成し、著作権の生きているドイツ、オーストリアの作品を上演禁止にしようという動きに出るが、ラヴェルとフォーレは参加を拒否する。ラヴェルは、敵国とはいえ、芸術において評価すべき外国の芸術家、作品を排除することは自国の芸術にとってマイナスとなると考えたのである。ここでもまた、ラヴェルは保守的なフランス音楽界から背を向けられることになる。

1918年11月11日、フランスは戦勝国として休戦協定に調印し、戦争は終結したが、ラヴェルは心身ともに激しく消耗していた。しかし、大戦終結後の音楽界はどうなったかというと、ラヴェルはウィーンに演奏旅行に行き、オーストリア人であったシェーンベルクはパリで自身の作品を上演することになり、それぞれに高く評価され、ラヴェルの考えが正しかったことが証明されたのだ。

大切な人との別れ

ラヴェルの父ジョゼフは1908年、76歳で既に永逝していたが、最愛の母マリーが亡くなったのは1917年のことであった。母に溺愛され、また母のことを心から愛していたラヴェルは、戦争による消耗もあり、ひたすら悲しみに暮れる日々を長く送った。

また1918年3月、大戦終結を待たずに、長い間評論家たちに比較され続けてきたドビュッシーが、直腸がんのため55歳で死去した。当時のフランス音楽界の先端に位置する代表作曲家とずっと評価されていた人物がこの世を去り、皮肉なことだが、ここからラヴェルに対する風向きは変わる。ラヴェルは当時のフランスを代表する作曲家として評価されることになったのである。

1920年、ルビュー・ミュジカル誌が、ドビュッシーを追悼する作品を10人の作曲家に依頼するという企画を立ち上げる。これにより、サティ、ファリャ、バルトーク、ストラヴィンスキーらとともにラヴェルも追悼作『ヴァイオリンとチェロのための二重奏』(後の『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』第1楽章)を書き上げた。

そして数年後、もう一人ラヴェルにとって大切な人がこの世を去る。偉大なる師のフォーレである。1924年11月4日、79歳で死去した師との別れの式は、マドレーヌ教会で国葬として営まれ、49歳のラヴェルもそれに参列した。

レジオン・ドヌール勲章騒動

レジオン・ドヌール勲章とは、1802年、ナポレオン・ボナパルトが制定した栄典であり、現在までフランスの最高位勲章として位置づけられるものである。

バレエ・リュスのための管弦楽『ラ・ヴァルス』に取り組んでいた1920年1月、発表された受勲者リストの中にラヴェルの名前があった。ラヴェル自身、事前にその旨を知らせる郵便物を受け取ってはいたが、忙しさによりそれに目を通すことができなかったのか、発表で突然そのことを知った。そしてラヴェルは受勲を拒否したのだ。

名誉の勲章を受けないその理由について、様々な説があるが、ローマ大賞に落選したあの時から、表面的な折り紙を付けられることに見切りをつけていたのかもしれない。ここにラヴェルの揺るぎのない信念が見える。

同年4月、時の大統領と担当大臣によって、正式にノミネートは撤回され、この騒動に幕が下りる。

アメリカ・カナダ演奏旅行

1928年、ラヴェルはニューヨーク港に降り立ち、53歳~54歳にかけて、4か月に及ぶアメリカ・カナダ演奏旅行に出かける。1月7日のトーマス・エジソン夫人主催のレセプションに始まり、翌日のボストン交響楽団のラヴェル作品演奏会では、3500人の観客が集まり、終演後にはスタンディングオベーションで拍手に包まれたという。列車による移動で、およそ25都市を回り、作曲家、指揮者、ピアニストとして1週間平均2回のコンサートを行い、その合間に作曲家仲間に会い、名勝地を訪れ、厳しい日程をこなしたのであった。

前年にパリのサル・エラール(エラールコンサートホール)で初演された、第2楽章に『ブルース』という表題を持つ、ジャズの要素の入った『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』を演奏した際、これについてはアメリカでも批評家に問題視されることになった。観客は拍手を送ったにも関わらずだ。

ヒューストンで行った公開講演で、ラヴェルはアメリカ音楽についてこのような話を残している。

「この短い公演を閉じる前に、再度私はみなさんの国を訪れてどれほどうれしく思っているか申し上げたいと思います。今回の旅によって、アメリカ音楽の真の楽派を徐々に形成することに貢献している諸要素をよく知ることができただけに、その喜びはなおさら深いものでした。この楽派が最終段階において有名になるであろうことを、私は露ほども疑っておりません。そして、この楽派は、あなた方がヨーロッパ人と違うように、彼らの音楽とは異なる国民的な表現を実現するものだと確信しています……いずれにしても、願わくは、あなた方の国民的アメリカ音楽が、お国のジャズの豊かで楽しいリズムや、ブルースの感情表現や、ポピュラーなメロディや歌の情味や心を取り入れ、さらに、音楽の高貴な伝統から得るものは得て、逆にそれにも貢献しますように。」

アービー・オレンシュタイン(2006)
『ラヴェル 生涯と作品』(井上さつき訳)
音楽之友社 p.126-129

この旅でラヴェルは、当時のアメリカの若き国民的作曲家ジョージ・ガーシュイン(1898~1937)と連れ立って、ハーレムでジャズを聴き、ガーシュインのミュージカル『ファニー・フェイス』を観、自身の誕生会にはガーシュインからも祝いを受けている。そんな中、ガーシュインに作曲の指導を頼まれ、最終的には断っているのだが、友人のフランス人作曲家であり、優秀な音楽教育家でもあったナディア・ブーランジェ(1887~1979)に3月8日付でこのような手紙を送っている。

「非常に輝かしく、魅力的で、たぶん深い資質を持つ音楽家がいます。ジョージ・ガーシュインです。彼は世界的に成功していますが、それに満足せず、さらなる高みをめざしています。彼はそのための手段が欠けていることを知っています。それらを彼に習得させたら、彼を壊してしまうかもしれません。私は無理ですが、あなたにはこの恐ろしい責任を引き受ける勇気がありますか?五月の最初に帰国する予定です。そうしたら、この件についてお話ししましょう。」

井上さつき(2019)『ラヴェル』音楽之友社 p.170

円熟

アメリカから帰国したラヴェルは、早速オーケストラを使った作品に取り組むことになる。バレエ音楽『ボレロ』(1928)である。バレリーナのイダ・ルビンシュタインからスペイン作曲家のピアノ組曲をバレエ用に管弦楽曲に編曲してくれるようにと依頼を受けたが、その編曲の権利はスペインの指揮者が持っていることが発覚する。そこでラヴェルは新作を作曲することに決めたのだ。『ボレロ』はそれまでの管弦楽とは一線を画す作品であったが、オーケストラ作品として爆発的にヒットし、彼の代表作となった。

この作品についておもしろいエピソードがある。1930年、アルトゥーロ・トスカニーニ(1867~1957、フルトヴェングラーと並んで20世紀前半を代表する大指揮者)がニューヨークフィルを率いてパリ・オペラ座で公演を行った。その際、ラヴェルはトスカニーニの演奏に憤慨して彼を叱責した。テンポが速すぎたことについて、一切妥協できないということだったが、後日ラヴェルはトスカニーニに手紙を書き、関係の修復をはかったというのである。(後の研究でこれは事実でないと言われているが、エピソードとしてラヴェルの性格を反映していると思われる。)以前にも同じようなことがあった。教え子のピアノを叱責したことでその弟子がレッスン室を飛び出してしまったのだが、しばらくしてラヴェルが探しに来たというのだ。完璧主義で自分の信じる音楽に妥協できない反面、人とのつながりをとても大事に思う温かい一面が垣間見えるエピソードである。

当時、第1次世界大戦によって片腕を失ったピアニストが少なからずいて、そんなピアニストのために片手のためのピアノ曲が作られていた。ラヴェルも、1929年、オーストリアのピアニストから左手のためのピアノ協奏曲の委嘱を受けた。一方、その時に既にボストン交響楽団から委嘱を受けていた『ピアノ協奏曲ト長調』の作曲も始まっていて、同時に2つのピアノ協奏曲に取り組むことになった。

同じく1929年、54歳の年、ラヴェルはあれだけ冷遇されたパリ音楽院から、教育高等評議会委員に任命され、また、新設されたグランプリ・ド・ディスク(レコード大賞)審査委員会のメンバーにも任命される。人生の終盤に差し掛かって、パリ音楽界の中心に立ち、忙しい時代が始まったのである。

人生の終わりに

1932年、ジャズの手法がより取り入れられた『ピアノ協奏曲ト長調』の初演が、ラヴェルの指揮によってパリのサル・プレイエル(プレイエルコンサートホール)で行われ、またその数日前には『左手のための協奏曲』の初演がウィーンでウィーン交響楽団による演奏により行われた。『ピアノ協奏曲ト長調』の方は、その年のヨーロッパ演奏旅行のプログラムに入れられ、各地で熱狂的に受け入れられた。

1932年秋、57歳のラヴェルは、パリでタクシーに乗っている途中追突事故を受けて怪我を負うことになる。回復するまでに時間はかかったが、翌年1月にサル・プレイエルにおいて『左手のための協奏曲』をラヴェル自身の指揮でパリ初演し、大成功を収めた。

翌年1933年、体調が悪化する中、歌曲『ドゥルシネア姫に思いを寄せるドン・キホーテ』を書き上げたラヴェルは、11月、『ボレロ』と『ピアノ協奏曲ト長調』を指揮するが、これが最後の観客の前での演奏となった。そして1934年、歌曲『ロンサールここに眠る』の管弦楽編曲を弟子たちに口述筆記させるという形で完成し、それを1935年初演し、これが最後の新作初演となった。

『ロンサールここに眠る』の管弦楽編曲の頃には、文字を書くのも不自由になっており、出かけた先でサインを求められても断っていたという。1937年12月27日、医師の判断により難しい脳の手術を受けたが、翌日12月28日午前3時30分、旧友のドラージュに付き添われて、ラヴェルは静かに息を引き取った。そして12月30日、ルヴァロワ・ペレにある墓地の両親のかたわらに葬られた。享年62歳。音楽に身を捧げ、ダンディズムと独身主義を貫いた人生であった。

戦後、ラヴェルが終のすみかとして購入した、パリ郊外のモンフォール・ラモリにある【ル・ベルヴェデール】と呼ばれる屋敷は、現在ラヴェル記念館として当時のままに保存されているが、彼の過ごしたピアノ部屋には、日本の浮世絵やミニチュアの置物などが所狭しと置かれ、まるで子供部屋のようで、そこには少年ラヴェルの影が今もたたずんでいるように感じられるということである。

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