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無垢な愛が奏でる官能と戦慄、R.シュトラウスのオペラ『サロメ』〜あらすじや曲を紹介〜

7. 新約聖書からオペラのサロメへ

イエス・キリストに洗礼を授けた、洗礼者ヨハネの命を奪った女性サロメ。この強烈なエピソードのために、サロメのイメージはあらゆる芸術分野へで古くからインスピレーションを与え続けてきました。

ギュスターヴ・モロー「サロメ」(1876年)/ ギュスターヴ・モロー「出現」(1876年)


特にフランスでは、1876年に出品されたギュスターヴ・モロー(1826-1898)の絵画「サロメ」と「出現」がセンセーションを巻き起こします。これを見たギュスターヴ・フローベール(1821-1880)が翌年、短編小説『エロディアス』を発表。ステファヌ・マラルメ(1842-1898)も、長詩『エロディアード』を書き進めていました。

このようなサロメ文化の下地があったフランスで、作家オスカー・ワイルド(1854-1900)は独自のサロメ像を生み出します。

7-1.『新約聖書』のサロメ

まずは『新約聖書』を見てみましょう。『新約聖書』の「マルコによる福音書」および「マタイによる福音書」の中に、ヘロディアスの娘に関する記述があります。

「マルコによる福音書」第6章
イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は、「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、あのような力が彼に働いている」と言っていた。他の人々は「彼はエリヤだ」と言い、また他の人々は「昔の預言者の一人のようだ」と言っていた。ヘロデはこれを聞いて、「私が首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。実は、ヘロデは、兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕させ、牢につないでいた。ヨハネがヘロデに、「兄弟の妻をめとることは許されない」と言っていたからである。そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。ところが、よい機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日に重臣や将校、ガリラヤの有力者たちを招き宴会を催すと、へロディアの娘が入って来て踊りを踊り、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王はこの少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言った。さらに、「お前が願うなら、私の国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。そこで、少女は座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。早速、少女は大急ぎで王のところに戻り、「今すぐに、洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また列席者の手前、少女の願いを退けたくなかった。そこで、王はすぐに衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るように命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、盆に載せて持って来て少女に与え、少女はそれを母親に渡した。ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。

『聖書 聖書協会共同訳 旧約聖書続編付き 引照・注付き』日本聖書協会、2018年

ヘロデ・アンティパスとイエス(アルブレヒト・デューラー画、1509年)


ここに出てくる「ヘロデ王」は、オペラ『サロメ』のヘロデ(ヘロデ・アンティパス)のこと。イエス・キリストの誕生を恐れて新生児を皆殺しにしたことで有名なヘロデ大王の息子で、大王の死後領土を分割統治した3人の息子のうちの一人でした。

サロメの母へロディア(オペラではヘロディアス)は、ヘロデ大王の孫にあたります。ヘロデ・アンティパスの異母兄ヘロデ・フィリポ(ヘロデ・フィリッポス)の妻でしたが、離婚してヘロデ・アンティパスの妻となりました。サロメはフィリッポスとの娘です。ユダヤの律法は兄弟の妻との性的関係を禁じていたため、洗礼者ヨハネはヘロデとヘロディアを糾弾しました。

『ユダヤ古代誌』の紙葉(ポーランド国立図書館所蔵)


さて聖書の記述では、ヘロディアの娘の名前が書かれていません。フラヴィウス・ヨセフスのローマ時代の歴史書『ユダヤ古代誌』にヨハネ斬首の記述があり、そこには少女の名前が「サロメ」であると記されています。

サロメという名はヘブライ語で「平安」を意味し、一般的によく使われた普通の名前だったようです。現在ではシュトラウスのオペラによって、「ファム・ファタール(宿命の女)」のイメージが固定しました。
ちなみに歴史上のサロメはその後、別の領土を支配していた叔父にあたる人物と結婚し、平穏に暮らしました。

7-2.オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』

1893年初版の戯曲『サロメ』/オスカー・ワイルド(1882年、ニューヨーク、ナポレオン・サロニー撮影)


アイルランド出身の作家オスカー・ワイルドは、フランス旅行をきっかけに1891年、1幕ものの戯曲『サロメ』をフランス語で執筆します。

1892年、大女優サラ・ベルナールを主役にロンドンで上演を試みますが、検閲官が内容の背徳性を問題視し上演禁止。ワイルドは1893年、この戯曲をパリで出版しました。翌1894年、ワイルドの同性愛パートナーであったアルフレッド・ダグラスが英訳版を出版します。

ワイルドの『サロメ』は、聖書のエピソードとはかけ離れたものです。聖書を扱いながら、美的に高められた邪悪、死を究極の快楽とみなすエロティシズム、異常性の具現化として、ヨーロッパ中で大スキャンダルを巻き起こしました。

イギリスでは1931年まで上演できず、初演は1896年フランスのルーブル座。この初演時、ワイルドは男色事件で1895年から2年間服役。結局『サロメ』の上演を目にすることなく、1900年に他界しました。

オーブリー・ビアズリーによる戯曲『サロメ』の挿絵(1894年)


英語版『サロメ』の挿絵には、イギリスの画家オーブリー・ビアズリー(1872-1898)が独創的なサロメ像を描きました。そのビアズリーも1898年に25歳の若さで早世。シュトラウスがオペラ化を決めた1903年当時、戯曲『サロメ』は演劇史上過去のものとなっていました。

しかしその後、ワイルドもビアズリーも世紀末芸術の先駆けとして急速に認められるようになり、特にビアズリーの線画は現在までサロメのイメージを決定づけるものとなっています。


7-2.オスカー・ワイルドの戯曲『サロメ』

1999年にドイツで発行されたオペラ『サロメ』記念切手


戯曲『サロメ』はワイルド没後の1901年、ドイツ・ベルリンで著名演出家のマックス・ラインハルトが上演し、初めての成功を博しました。ベルリンの上演を見たシュトラウスは、「この劇は音楽を求めている」と直感します。終演後、オペラにしたらどうかと持ちかけた友人に、「もう作曲を始めているよ」と返したという有名なエピソードも。

戯曲『サロメ』のドイツ語版は1903年、ヘートヴィヒ・ラッハマンにより出されます。シュトラウスは、ウィーンの作家アントン・リントラーから韻文化した台本を渡されていたのですが気乗りせず、ラッハマンの訳文にそのまま作曲することを選びました。ワイルドの文学そのものが、非常に音楽的であることを見抜いたのです。

このように、文学作品としての原作に大きな変更を加えることなく台本化したオペラを「文学オペラ」と呼び、オペラ『サロメ』はこのジャンルの先駆けとして、その後の文学オペラの伝統を形成していきました。

とはいえ歌に合わせるため、重複部分の削除や部分的な変更を施しています。シュトラウスのオペラでは、サロメの処女性が強調され、より一層無慈悲な恐ろしさが際立つことになりました。ドレスデンでの初演前の1905年5月、ピアノ演奏によるオペラ『サロメ』の試演会を見た作曲家グスタフ・マーラー(1827-1889)は、初めは戸惑いを見せたものの、最終的には作品に完全に圧倒されたと述べています。

画像|出典:Wikimedia Commons

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神保 智 じんぼ ちえ 桐朋学園大学音楽学部カレッジ・ディプロマ・コース声楽科在学中。子どものころから合唱団で歌っていた歌好き。現在は音楽大学で大好きなオペラやドイツリートを勉強中。

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