ヴェルディ渾身の人間ドラマ、オペラ『リゴレット』~あらすじや曲を紹介~

7.『リゴレット』初演までの裏舞台

オペラ『リゴレット』の初演には、原作となったユーゴーの戯曲『王は楽しむ』が本国フランスで大問題となっていたため、「検閲」という大きなハードルが立ちはだかりました。

当時のイタリアは統一されていない小国の集まりで、大国オーストリアの支配を受けていました。その支配に抵抗する暴動が起きるなど、政治的問題がくすぶり続けていた時代だったのです。

7-1. ユーゴーの原作『王は楽しむ』

ヴィクトル・ユーゴーの肖像、1876年撮影
出典:Wikimedia Commons


オペラ『リゴレット』の原作は、フランスの文豪ヴィクトル・ユーゴー(1802-1885)の戯曲『王は楽しむ』。ユーゴーは、小説『レ・ミゼラブル』の著者としても有名です。『リゴレット』に先立つヴェルディのオペラ『エルナー二』の原作もユーゴーでした。

ユーゴーの戯曲『王は楽しむ』は1832年11月22日、パリで初演しました。しかし、初演のその場で客同士の殴り合いに発展するほどの大騒動を巻き起こし、翌日には上演禁止になってしまいます。

戯曲『王は楽しむ』第1幕第1場のシーン
出典:Wikimedia Commons


この戯曲には、フランスの歴史上実在の人物が登場します。

ルネサンス期のフランス国王フランソワ1世(1494-1547、オペラ『リゴレット』ではマントヴァ公爵)、フランソワ1世に仕えた宮廷道化師トリブレ(同リゴレット)、サン・ヴァリエ伯爵(同モンテローネ伯爵)とその娘ディアヌ・ド・ポワティエ。

フランソワ1世は、レオナルド・ダ・ヴィンチ(1452-1519)を招へいしてフランスのルネッサンス文化を花開かせた一方、好色家で国王の愛人を正式に認める制度まで導入しました。『王は楽しむ』の伏線となっているのは、フランソワ1世とディアヌ・ド・ポワティエのエピソードです。

ディアヌの父サン・ヴァリエ伯爵は、反逆罪の濡れ衣で死刑を宣告され、断頭台に上がったところで恩赦を受けました。ディアヌが父の命を救うため国王に貞操を捧げたからだと噂され、このエピソードによってフランソワ1世の放蕩イメージが広がりました。『王は楽しむ』ではサン・ヴァリエ伯爵がディアヌの凌辱を告発する場面があり、オペラ『リゴレット』のモンテローネ伯爵の呪いの場面と対応しています。

ユーゴーの戯曲は、道化のトリブレとその娘のブランシュをめぐる個人的な悲劇をテーマとしながらも、支配階級への批判意識を強く反映していました。

歴史上の出来事とはいえ、実在の王の名を出して、その腐敗と不道徳を糾弾するストーリーは過激すぎると判断され、即時に上演禁止の大臣命令が出されます。ユーゴーは訴訟を起こしましたが裁判所で門前払いされ、初演からちょうど50年後の1882年11月22日まで上演が許されることはありませんでした。

7-2. 検閲との戦い

オペラ『リゴレット』を初演したヴェネツィア・フェニーチェ劇場、1837年再建時の内部
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パリで上演禁止になったいわくつきの問題作が、イタリアで問題にならないはずがありません。

オペラ『リゴレット』(当初のタイトルは『呪い』)の台本をヴェネツィアの検閲局に提出した1850年当時のイタリアは、1848年にミラノ蜂起(ミラノで起きたオーストリアからの独立を求めた市民の暴動)が起きたばかり。ヴェネツィアの検閲局は神経を尖らせました。

しかしヴェルディは、自分の理想のオペラを実現するための題材として、『王は楽しむ』以外にはないと考えていました。検閲が通らない危険を承知の上で『王は楽しむ』を選んだのは、ユーゴーの描き出す個性的な登場人物、ダイナミックな感情表現、劇的効果に富んだストーリー展開と、ヴェルディが本当に表現したいと思える題材が全て揃っていたからです。

台本作家フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ
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検閲問題突破の最大の功労者は、ヴェルディ片腕の台本作家フランチェスコ・マリア・ピアーヴェ(1810-1876)でした。検閲局は何度も台本に介入し、主人公のキャラクター変更まで要求するなど困難を極めました。

ピアーヴェは検閲局と頑固なヴェルディの間を奔走。最終的には、舞台となる場所の変更、登場人物名やタイトル名の変更を受け入れ、音楽はそのままでストーリーの核心部分も失われることなく、オペラ『リゴレット』を世に出すことができたのでした。

7-3. 古都マントヴァ

Dsc 1150 Mantua

マントヴァ
User:EdoM, CC BY-SA 3.0
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オペラ『リゴレット』の舞台は、検閲の要求で、パリから北イタリアのマントヴァに変更されました。マントヴァはロンバルディア州南東部にあり、ミンチョ川をせき止めて作られた3つの人工湖に囲まれた風光明媚な町です。

マントヴァ市内にはオペラ『リゴレット』に関連する建物や登場人物の像がありますが、劇中の人物は全て架空の人物ですので、オペラ人気に合わせて観光地化されたものです。

ゴンザーガ家の居城ドゥカーレ宮殿、ドメニコ・モローネ画
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マントヴァは、14世紀から18世紀初頭までの約300年間ゴンザーガ家が支配し、15~16世紀にはイタリア芸術の中心都市として栄えました。

特に、第4代マントヴァ侯フランチェスコ2世(1466-1519)の妻イザベラ・デステ(1474-1539)は、政治的手腕も発揮したルネサンス期の代表的才媛。芸術振興に勤め、レオナルド・ダ・ヴィンチやミケランジェロ(1475-1564)、ラファエロ(1483-1520)といった芸術家を宮廷のサロンに招き支援しました。

ちなみに、フランチェスコ2世の跡を継いだフェデリーコ2世(1500-1540)は、愛妾のためにテ宮殿を建てたりした放蕩者のイメージを持たれています。ヴェルディは、オペラ『リゴレット』の舞台がマントヴァに変更された時、放蕩者の君主の名を「ゴンザーガ」にしようと考えていました。しかし、検閲は「ゴンザーガ」の名も許さず、「マントヴァ公爵」とするよう要求しました。

音楽史上でマントヴァと言えば、マントヴァ宮廷楽長を務めた作曲家クラウディオ・モンテヴェルディ(1567-1643)が挙げられます。

マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世(1562-1612)は、1600年にフィレンツェで上演された現存最古のオペラ『エウリディーチェ』に触発され、モンテヴェルディにオペラ『オルフェオ』を作曲させました。『オルフェオ』は「最初の人気オペラ」と言われ、現在もバロック・オペラの傑作として各国で上演されています。

8.まとめ

ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

オペラ『リゴレット』は、ヴェルディ円熟期の大傑作!ドラマと音楽が見事に融合し、まるで映画を観るような臨場感で楽しむことができます。ヴェルディが検閲から守り抜いたドラマティックなストーリーと渾身の音楽を、お楽しみください!

オペラって、素晴らしい!

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神保 智 じんぼ ちえ 桐朋学園大学音楽学部カレッジ・ディプロマ・コース声楽科在学中。子どものころから合唱団で歌っていた歌好き。現在は音楽大学で大好きなオペラやドイツリートを勉強中。

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